封建日本の道徳体系は、その城郭や武器のように崩壊して塵となり、新しい道徳が新生日本の進歩の道を導くために不死鳥のように甦る、と予言されて来た。そして、さまざまの予言は、過去半世紀の出来事によって証明された。 このような予言は、望ましくもあり、起こりうることでもある。しかし不死鳥は、ただ自分自身の灰の中から甦るのだ。それは渡り鳥ではなく、他の鳥から借りた翼で飛ぶのでもないことを忘れてはならない。 「神の王国はあなたたちの内にある」
── 神の王国は、山がいかに高くてもそこから転がり落ちては来ない。海がいかに広くても、それを渡っては来ない。 「神はあらゆる国民に、その国語で語る預言者を与えられた」
とコーランに言われる。 日本人の心の中に証され、了解されたものとしての神の王国の種は、武士道の中に花開いた。 その日は、今や暮れつつある ──
悲しいことだが、その熟する前に。そこd我われは、美と光、力と慰めの新たな源泉をあらゆる方向に求めているが、いまだそれに代わるべきものを見出せないのである。 功利主義者、および唯物主義者の損得哲学は、中途半端な屁理屈屋の好むところとなった。功利主義および唯物主義と対抗できる力のある唯一の論理体系は、キリスト教だけである。これに比べれば武士道は、
「くすぶる灯心」 のようなものであることを認めなければならない。 しかしメシア (救世主) は、これを消すことなく、それを煽いで燃え上がらせると宣言した。メシアの先駆者であるヘブライの預言者たち、──
特にイザヤ、エレミヤ、アモス、ハバスク ── と同じように、武士道は、特に統治者や公人や国民に道徳的な行為を重視する。一方、キリストの倫理は、もっぱら個人的な、キリストの弟子たちだけに対するものだから、個人主義が道徳要素として力をつけると、ますます実際に広く応用されていくだろう。 ニーチェの尊大で自己中心的ないわゆる
「超人道徳」 は、ある意味では武士に近い。 しかし、私が大きく誤っていないなら、これはニーチェが例の病的な歪曲をして、ナザレ人 (キリスト)
の謙遜で自己否定的な奴隷道徳と呼んだものに対する、一つの過渡的な現象、あるいは一時的反動なのである。 |