キリスト教と功利主義も含む唯物主義
── 将来、あるいはヘブライ主義とギリシャ主義というさらに古い形式に還元されるだろうか ── は、世界を二分するだろう。小さな道徳体系は、自己を存続させるためいずれかの側につくだろう。武士道は、どちあの側に加わるのだろうか。 武士道は、何らまとまった教義も守るべき公式もないから、朝の風の訪れに桜の花びらが散るように、その姿を消してしまってもかまわない。 しかしながら、完全に絶滅することが武士道の運命ではありえない。禁欲主義は死んだと、誰が言えるだろうか。体系としては死んだが、美徳としては生きている。その活力と生命力は、今なお人生のさまざまな面で、西洋諸国民の哲学において、すべての文明世界の法の中に感じられる。そう、人が自己以上のものになろうと奮闘する時、自己の努力によって精神が肉体を制御する時、我われはゼノン
(ストア派の祖) の不滅の規律が働いているのを見るのである。 武士道は、独立した論理の掟としては消えるかもしれない。しかし、その力は、この地上から滅び去ることはないだろう。武人の勇気や名誉の教訓は、破壊されるかもしれない。しかし、その光と栄誉は、その廃墟を越えて長く生き延びるだろう。その象徴とする花のように、四方からの風に散った後もなお、人生を豊にするその香りで、人類を祝福するだろう。 何世紀もたち、その習慣が葬られ、その名さえ忘れ去られても、その香りは、
「路辺に立ちて眺めれば」 はるか彼方の見えない丘から風に漂って来るだろう ── かのクエーカー詩人が、その時美しい言葉で歌ったように。 |