〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part W-V』 〜 〜
==武 士 道 ==
(著:新渡戸 稲造 訳:山本 博文)
 

2015/11/14 (土) 

愛 の 観 念 に つ な が る 仁 の 思 想

もし歴史が私たちに何かを教えることが出来るなら、武徳の上に建てられた国家 ── スパルタのような都市国家にせよ、あるいはローマのような帝国にせよ ── は、この地上において 「永遠の都市」 にはなりえない。
人間の内にある戦闘本能は、普遍的で自然なものであり、高尚な感情や男らしい美徳を生み出すものであったけれども、それが人間全体であるわけではない。戦闘本能の内には、より神聖な本能 ── すなわち愛がひそんでいる。神道、孟子、王陽明がこれを明白に教えていることを、我われは見て来た。しかし、武士道やその他すべての軍事型の倫理は、直接的で実際的な必要のある問題に心を奪われていたので、この事実を正しく位置づけることをしばしば忘れていた。
現代においては、生活の範囲が拡大している。武士の使命よりももっと高くもっと大きな使命が、今日我われの注意を引いている。広がった人生観、デモクラシーの進展、他の民族や他の国民についての知識の増大につれて、孔子の仁の思想 ── 仏教の慈悲の思想もこれに加えよう ── は、キリスト教の愛の観念に到達するだろう。人は臣下の身分から市民の地位にまで成長している。いや、人は市民以上のもの ── 人間である。
今は戦雲が暗く地平線上にかかっているけれども、平和の天使の翼がそれを払ってくれるだろうと私は信じる。世界の歴史は、 「穏やかな人びとが地を受け継ぐであろう」 という予言を証明する。
生まれながらの権利として持つ平和を売り渡し、産業振興の前線から撤退して、侵略主義の戦列に加わる国民は、なんとつまらない取引をしているのだろうか!
社会の状況が大いに変化して、武士道に不都合なだけでなく敵対的とさえなった今日こそ、その名誉ある葬送の準備をすべき時である。
騎士道がいつ死んだかを指摘するのは、騎士道が正確にはいつ始まったかを決めるのと同じぐらい困難である。ミラー博士は、騎士道は、フランスのアンリ二世が馬上試合で殺された一五五九年をもって正式に廃止されたと言う。
わが国にあっては、一八七〇年に出た廃藩置県の詔勅が、武士道の弔鐘ちょうしょう を鳴らす合図だった。その五年後に公布された刀の携行を禁じた詔勅 (廃刀令) は、 「金銭では変えない人生に恵み、安価な国防、男らしい感情と英雄的事業の乳母」 であった旧時代を葬送し、 「詭弁家、経済家、計算家」 の新時代を鐘を鳴らして迎えた。
日本がこの前の中国との戦争 (日清戦争) に勝ったのは、村田銃とクルップ銃のおかげだと言われた。またその勝利は、近代的な学校制度の効果だとも言われた。しかしながらこれらは、真理の半面ですらない。
たとえエールバーもしくはスタインウェイの最良の製品であったも、名演奏家の手を借りず、ピアノが突然鳴り出して、リストのラプソディやベートーベンのソナタを演奏するだろうか。
さらにもし銃砲のみで戦争に勝てるものならば、ルイ・ナポレオンはミトラユーズ式機関銃 (後装式重機関銃) がありながら、なぜプロシア軍を撃破出来なかったのか。あるいはスペイン人は、モーゼル銃 (ドイツ人発明の連発銃) を持ちながら、旧式のレミントン銃で武装したにすぎないフィリピン人をなぜ破ることが出来なかったのだろうか。
「命を吹き込むのは精神である。精神抜きでは最良の道具もほとんど役に立たない」 というありふれた言葉をくり返すまでもない。もっとも進歩した銃砲も、ひとりでに発射するわけではないし、もっとも近代的な教育制度も、卑怯者を英雄には出来ない。
そう! 鴨緑江おうりょくこうにおいて、朝鮮および満州において戦勝をおさめさせたものは、私たちの手を導き、私たちの心臓に鼓動している父祖の霊魂であった。これらの霊魂、私たちの勇敢な祖先は死に絶えたのではなく、見る目のある者にははっきろと見えるのである。
もっとも進歩的な思想を持った日本人でも、その皮膚を剥げば、一人の武士が下から現れる。名誉、勇気、あらゆる式徳の偉大な遺産は、クラム教授が実に適切に表現したように、 「我われが預っている財産にすぎず、死者ならびに将来の子孫から奪ってはならない領地」 である。そして、現在の我われの使命は、この遺産を守って古い世親を損なわないことであり、未来における使命は、人生のすべての行動と諸関係に応用していくことである。

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