〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part W-V』 〜 〜
==武 士 道 ==
(著:新渡戸 稲造 訳:山本 博文)
 

2015/11/13 (金) 

消 え 去 る 運 命 に あ る 武 士 道

ヨーロッパの騎士道と日本の武士道ほど、歴史的比較が適切に出来る関係は稀である。
そしてもし歴史がくりかえす物ならば、武士道の運命が、騎士道の運命を踏襲することは確実だろう。
フランスの言語学者サン・バレーがあげた、騎士道が衰退に至る特殊な、かつ地域的な要因は、もちろん日本の状況には当てはまらない。しかし、中世以後において、騎士と騎士道を衰退させることになったより広範で一般的な諸要因は、武士道に対しても確実に作用しつつある。
ヨーロッパの経験と日本の経験との間における。
ヨーロッパの経験と日本の経験との間における一つの著しい違いは、騎士道が封建制から引き離された時、教会に扶助されて新たな余命を保ったのに対し、日本においては、どの宗教も武士道を扶助することが出来るほどには大きくなかったことである。したがって、母なる制度である封建制が過去のもにになると、武士道は孤児として潰され、独力で生きていかねばならなかった。
現代の整備された軍隊組織が武士道を保護下に置くかも知れないが、現代戦争に武士道を継続的に成長させる余地がない。幼年期の武士道を育てた神道は、すでに老いている。
古代中国の白髪の聖人たちは、ベンサムやミル流の知的成り上がり者に取って代わられつつある。
今の時代の好戦的愛国主義傾向におもねり、今日の要求に迎合していると思われる快楽的傾向の道徳倫理が発明され、提供されて来た。今のところ我われは、それらの黄色い声がイエロー・ジャーナルズム (煽情的・暴露的な記事を書く新聞) のコラムに反響するのを聞くにすぎないが。
さまざまな勢力や権威が、武士道に対抗してきている。アメリカの社会学者ヴェブレンが言うように、「産業階級そのものの間で、儀礼の衰退したこと、諌言すれば生活の通俗化は、繊細な感受性の持った人々の目から見れば、文明の末期的症状の一つである。」
勢力を増すデモクラシーの大きな潮流だけでも、武士道の名残を呑み込んでしまう力がある。デモクラシーは、いかなる形式、いかなる形態の独占集団をも認めない。しかるに武士道は、知性と教養という資本を排他的に所有する人びとによって組織され、道徳の等級や価値を定める一個の独占集団だった。
現代の社会的諸勢力は、狭い階級的精神を容認しない。武士道は、イギリスの歴史家フリーマンが厳しく批判するように、一つの階級的精神であった。近代社会は、国民の統一を標榜する限り、 「特権階級の利益の為に考案された純粋に個人的な義務」 を認めることは出来ない。
これに加えて、大衆教育、産業技術や企業慣行、富および都市生活の発展がある。── そこでは武士の刀のもっとも鋭い一閃も、武士道の最強の弓から放たれた鋭い矢も、何の役にもたたないことが容易に知られる。
名誉の岩盤の上に建てられ、名誉によって防御を固めた国家 ── それを 「名誉国家」 と呼ぼうが、あるいはカーライル流に 「英雄国家」 と呼ぼうが ── は、急速に、屁理屈を武器とする法律家や饒舌な政治屋の手に陥りつつある。
一人の大思想家が、テレサ (ウクライナ独立を目指したポーランドの勇将の愛人) やアンティゴネ (ギリシャ神話のテーベ王オイディプスの娘) について述べるに際して使った言葉 ── 「彼女たちの壮烈な行為を生み出した環境は、永遠に去った」 は、武士に対してくり返してもも当てはまるだろう。
ああ、武士の美徳よ! ああ、サムライの誇りよ! かね や太鼓で世に迎え入れられた道徳は、 「将軍たち、王たちが去る」 とともに消え去る運命にある。

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