〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part W-V』 〜 〜
==武 士 道 ==
(著:新渡戸 稲造 訳:山本 博文)
 

2015/11/09 (月) 

自 己 犠 牲 の 精 神

このようにして、少女は、幼い時から自己犠牲を教えられた。彼女の一生は独立したものではなく、従属し奉仕する生涯だった。自分の存在が役立つなら夫とともに舞台の上に立ち、もし夫の務めの邪魔にならなければ彼女は幕の後ろに退く。一人の若者がある娘に恋し、娘も同じく愛情をもって応えたが、若者が娘に惹かれるあまりに義務を怠っているのを見て、娘は自分の魅力を損なうためその顔に傷をつけた。こうしたことが起こるのも稀ではない。
武士の娘にとって理想の妻である 「あまと」 という女性は、自分の夫の敵から恋されていることを知り、不義のたくらみに荷担するふりをして、闇に紛れて夫の身替りになって、恋に目がくらんだ暗殺者の剣をみずから捧げた首に受けた ( 『源平盛衰記』 )
ある若い大名 (木村重成) の妻が、自害に先立って書き残した次の手紙は、註釈はいらないだろう。
「一本の樹の蔭、一河の流れまでも、みな他生の縁と聞いておりますが、ましてや一昨年の頃からの夫婦のちぎ りをなした私です。ただ影が形に添うように思って暮してきましたが、この頃聞くところによれば、最期の戦いを行われるとの事、かげながら嬉しく存じます。
唐土の項王という人は、評判の勇猛な武士でしたが、虞氏のために名残を惜しみ、木曾義仲は松殿のつぼね に別れを惜しんだと聞きます。それならば、 (妻となるという) この世の望みをかなえた私ですので、せめてあなたが生きている内に最期の時を迎え、死出の道とやらでお待ち申上げます。必ず必ず秀頼公からの多年にわたる海山のような鴻恩こうおん を御忘れなきように頼みあげます。」
女がその夫、家庭そして家族のために身を捨てることは、男が主君と国との為に身を捨てるのと同様、自発的かつみごとになされた。自己犠牲 self-renunciation ── これがなくては、およそ人生の謎は解けない ── は、男が忠義を果たすのと同じく、女の家庭生活の基本だった。女が男の奴隷でなかったことは、彼女の夫が封建君主の奴隷ではなかったことと同じである。女性の果たした役割は、 「内助」 すなわち内側の助として認められた。
奉仕のヒエラルキーのもとでは、女は男のために自分を捨て、これによって男は主君のために自分を捨てることが出来き、主君はそれによって天に従うことが出来た。
私は、この教えに欠点があることを知っている。
キリスト教の優れた点は、生きとし生ける者はそれぞれに創造者への直接の責任を要求することに、もっともよく現れている。それにもかかわらず、奉仕の教義 ── 自分を犠牲にして高い目的に仕えること、すなわちキリスト教の教えの中で最大であり、彼の使命の神聖な基調であった ── に関する限り、武士道は永遠の真理にもとづいていたのである。
読者は、奴隷的服従を賞讃するという不当な偏見を持つ者として、私を非難しはしないだろう。私は、ヘーゲルが幅広い学識と深遠な思索で主張し弁護した、歴史は自由の展開および実現である、という考えをおおかた受け容れる。私が主張したいのは、武士道の全教訓は自己犠牲の精神がすみずみまで浸透しており、それは女性だけでなく男性にも要求された、ということである。
したがって、武士道の影響が完全に消失するまでは、あるアメリカ人の女権論者の軽率な見解を、日本社会は納得しないだろう。彼女は、 「すべての日本女性は旧来の習慣に反逆して決起せよ!」 と叫んだ。このような反逆は成功するだろうか。それは女性の地位を改善するだろうか。このような軽はずみな行動によって彼女らが獲得する権利は、彼女らが今日受け継いでいる美しい気だてやおだやかな振る舞いの喪失に見合うものだろyか。
ローマの主婦が、家庭性を失ってから起こった道徳的頽廃は、言語に絶したではないか。
アメリカ人の女権論者は、私たちの娘たちの反逆が歴史的発展のとるべき真の進路であると保証してくれるだろうか。これは根本的な疑問である。反逆がなくても変化が起こらなければならないし、また起こることだろう! 今しばらく、武士道の制度下における女性の地位が、はたして反逆を正当とするほどじっさいひどいものだったかづかを見ていこう。

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