〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part W-V』 〜 〜
==武 士 道 ==
(著:新渡戸 稲造 訳:山本 博文)
 

2015/11/08 (日) 

武 家 女 性 の 理 想

人類の半分を占める女性は、よく矛盾の典型と呼ばれてきた。その理由は、女心の直感的な働きが男性の 「打算的な知力」 による理解の範囲を越えるからである。 「神秘的」 や 「不可知」 を意味する漢字 ( 「妙」 ) は、二つの部分からなっており、一方は 「若さ」 、他方は 「女性」 を意味する。女性の身体の魅力と繊細な思考は、男性の雑な心理能力では説明できないことだからである。
しかしながら、武士道における女性の理想像には、ほとんど神秘的なものはない。外見上の矛盾があるだけである。
私は前に 「アマゾネス的」 だと言ったが、それは真理の半面であるにすぎない。妻を意味する漢字 「婦」 はほうき を持った女を意味する。── もっともそれは、夫に対する攻撃や防御のために振り回すことではなく、魔法のためでもなく、箒が最初発明された際の無害な用途のためである ── そこには、英語の妻の語源が織る人であり、娘が乳搾ちちしぼ りに由来するのと同じように、家庭的な観念が合意されている。
今のドイツ皇帝が、女の活動の範囲は3K (台所 Kuche ・教会 Kiche 子供 Kinder ) にあると言ったというが、武士道における女性の理想はこの三つに限定するまでもなくたいへん家庭的なものだった。この一見、矛盾と思われる家庭的でありかつアマゾネス的であるという特性は、これから論じるように、武士道において両立しないものではない。
武士道は、もっぱら男のために作られた教えだから、女の為に重んじた美徳も、自然と女性的なものからはほど遠いものだった。ドイツの美術史家ヴィンケルマンは、 「ギリシャ芸術の最高の美は女性的というよりもむしろ男性的である」 と言った。おれに付け加えてレッキーは、それはギリシャ人の芸術におけるのと同じように、道徳観においても真理であると述べた。同様に武士道は、 「女の弱さから自分を解き放ち、もっと強くかつ勇敢な男に匹敵する」 女性をとりわけ賞讃した。そのため少女は、感情を抑制し、精神を強くし、武器 ── 特に 「なぎなた」 という長柄の刀を使い、突発的な出来事に際して自分の身を守ることを訓練された。
しかし、この武芸訓練の主な目的は、戦場において用いるためではなく、むしろ自分の身のため、ならびに家庭のためという二つにあった。女は、自分の主君を持たないから、自分の身を守った。その武器で、妻は、夫が主君の身を守るのと同様の熱心さをもって純潔を守った。家庭のためというのは、後に述べるように子供の教育においてである。
女性が剣術などを稽古するのは、実際に役立つことは稀だったとしても、それ以外は習慣的に座ってばかりの女性にとって、健康によいものであった。しかしながら、これらの稽古は、健康上の理由からだけでなされたわけではない。必要とあらば、実際に使うことも出来た。少女が成人に達すれば、短刀 (懐剣、懐に入れる刀) を与えられ、自分を襲う敵の胸を刺すか、場合によっては自分の胸を刺すことが出来た。後者のケースはしばしばあった。
しかし、私は彼女たちをきびしく裁こうとは思わない。ペラギアとドミニナという自殺した二人の女性は、その純潔と敬虔の理由で聖徒に列している。だから、自殺を嫌悪するキリスト教であっても、彼女たちを無慈悲に扱いはしないだろう。
日本のヴィルギニア (純潔を守るために父に殺されたローマの少女) は、自分の純潔が危機に瀕した時は、父親の剣を待つまでもなく、彼女自身の武器が常に懐にあった。自害の作法を知らないのは、女子の恥だった。たとえば、解剖学を教えられることはほとんどなかったが、咽喉のどの点を正確に突くべきかを知らなければならなかった。また、死の苦痛がどれほど激しくても、彼女の亡骸が手足ともに姿勢を崩さず、出来るだけ慎みのある恰好でいられるために、自分の膝を帯で固く結ぶことを知らなければならなかった。
このような身だしなみは、キリスト者ペルペチュアやローマ女神ヴェスタに仕えたコルネリアに匹敵するのではないだろうか。私がこうして唐突な問いを発したのは、入浴習慣 (混浴のこと) たその他の些細な点をもとにして、日本人の間に貞操観念っガないという誤解があるからである。貞操観念がないどころか、これこそは武士の女性の第一美徳であって、生命そのものいじょうのに重んじられた。
若い一人の娘が、荒武者から乱暴されそうになった時、まず戦いによって散り散りになった姉妹に手紙を書くことを許されれば、彼の言なろうと申し出た。手紙を書き終えると、その娘は近くにあった井戸に走り寄り、そこに身を投げて自分の名誉を守った。書き残された手紙の端には、一首の和歌があった。

世にへなば よしなし雲も おほひなん いざ入りてまし 山の端の月
(この世に生きながらえば、理不尽な雲に隠されることもあるでしょう。 そんな屈辱を受けるよりは隠れてしまいなさい、山の端にかかる月よ。)
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