武士道における自殺の制度は、その濫用が一見して人を驚かすほどには不合理ではなく、野蛮でもないことを見てきた。私たちは、これからその制度の姉妹に当る敵討
redress ── もしくは復讐 revenge と言ってもいい ── の制度の中にも何らかの美点があるかどうかを見よう。 私は、この問題をわずか数語で片付けることが出来ると思う。おそらく同様の制度
── 習慣と言ってもいいが ── は、すべての民族の間に行われてきたものであり、今日でもなったく廃れていない。それは、決闘やリンチが続いていることで証明されている。最近でも一人のアメリカ人将校が、ドレフュセスの仇を報ずるため、エステルハージに決闘を申し入れたではないか。 結婚という制度を持たない未開種族の間では、姦通は罪ではない。ただ愛する者の嫉妬だけが女性を乱暴から守るのである。同様に、刑事裁判所のない時代にあっては、殺人は犯罪ではない。ただ被害者の身内が復讐しようとたえず狙っていることだけが、社会の秩序を維持したのである。 「地上にあってもっとも美しいものは何か」
と、エジプト神話でオシリスはホーラスに尋ねた。その答えは、 「親の仇を討つことである」 と答えた。日本人は、これに 「主君の仇」 をつけ加えるだろう。 復讐には、人の正義感を満足させるなにかがある。復讐者はこう推論する
── 「父上は死ぬべき理由はなかった。父上を殺した者は、大罪を犯したのである。父上が存命ならば、このような行為を見過ごしはしないだろう。天もまた悪行を憎む。悪を犯した者にその悪行を止めさせるのは、父上の意志であり、天の意志でもある。私の手で彼を殺さなければならない。なぜなら、彼は不倶ふぐ
戴天たいてん の敵である」 。 こうした考えは、単純で幼稚である
(しかし私たちは、ハムレットもこれ以上に深くは考えなかったことを知っている) 。それにもかかわrず、これは、人間が持って生まれた正確な平衡感覚と平等な正義感を示している。 「目には目を、歯には歯を」
── 私たちの復讐の感覚は、数学的能力のように正確であって、方程式の両項が満たされるまでは、何事かがまだ果たされぬまま残っているという感覚を除くことは出来ないのである。 妬む神を信じるユダヤ教や、メネシス神を持つギリシャ神話では、復讐は超人間的な力に委ねられるだろう。しかし、常識は、武士道に、ある種の倫理的平衡感覚を保つための裁判所として、敵討の制度を与えた。しこでは通常の法によっては裁けないような事件を訴えさせるようにしたのである。 赤穂四十七士の主君は切腹を命じられた、彼は、控訴する上級裁判所を持たなかった。 彼の忠実な家来たちは、当時存在した唯一の最高裁判所である復讐に訴えた。そして彼らは、法によって罪の宣言を受けた。──
しかし、民衆の本能は違う判決を下した。それゆえに、四十七士の記憶は、泉岳寺に残った彼らの墓に今に至るまで香華が絶えないのと同じように、芳香を放っているのである。 老子は、恨みに報いるにコをもってす、と教えたが、正義をもって怨みを奉じるべきことを教えた孔子の声の方がはるかに大きかった。──
しかし復讐は、ただ目上の者や恩人のために行われる場合のみ正当である、とされた。自分自身に加えられた害悪は、妻子に加えられたものも含めて忍耐し、許さなければならなかった。 それゆえ、武士は、祖国の仇を報じようとするハンニバルの誓いには全幅の共感を寄せることが出来たが、ジェームズ・ハミルトンが、摂政マリーに対し妻の仇を討つため、妻の墓から一握りの土を取って帯の中に携えたことは軽蔑するのである。
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