切腹が名誉だとされたことで、おのずから切腹を濫用することへの少なからぬ誘惑が生じた。まったく不条理な事柄で、または全然死ぬほどでもない理由によって、せっかちな若者は飛んで火に入る夏の虫のように、死んでいった。はっきりとはしないさまざまな動機から、尼僧が修道院の門をくぐるよりも多くのサムライが切腹した。 命は廉価だった。──
それは世間の名誉の基準で測っても安いものだった。もっとも嘆かわしいことには、名誉にはいつも 「打算」 がつきまとっていた。いつも純金ではなく、卑金属が混じっていたのである。 ダンテの
『神曲』 の 「地獄編」 で、ダンテがすべての自殺者を獄吏に引き渡した第七圏ほど、日本人の人口密度が多い圏はないだろう。 しかしながら、真の武士にとっては、いたずらに死に急ぎ、死を恋いこがれることは、臆病に似た行為だった。 ある典型的な武士
(山中鹿之助) は次々と戦いに敗れ、山野を彷徨
し、森から洞窟へと追われ、刀欠け、弓折れ、矢尽きて、一人飢えて薄暗い木のうろの中にひそんでいた時も ── もっとも高邁なローマ人 (ブルータス)
でさえ、同じような状況下ではピリピリで自分の剣で斃たお
れたではないか ── 死を卑怯だと考え、キリスト教の殉教者に近い不屈の精神で、自らを励ました。 |
憂きことの なほこのうえに 積もれかし 限りある身の 力ためさん (もっともっと辛いことがわが身に降りかかれ!
私の力の限界を試してやろう) |
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そう、武士道の教えるところはこれであった。──
忍耐とくもりのない良心であらゆる災禍や困難に抵抗し、耐えよ。それは孟子が説くように、 |
天の将まさ
に大任をその人に降さんとするや、必ずまずその心志しんし
を苦しめ、その肋骨を労し、その体膚を飢えしめ、その身を空乏くうぼう
し、行いそのなすところを仏乱ふつらん
せしむ。心を動かし、性を忍び、その能あた
わざるところを増益ぞうえき せしむる所以なり
(天がまさに大任を人に降そうとするとき、必ずまずその心を苦しめ、その肋骨をさいなみ、その体膚を飢えさせ、その人が行おうとしていることを混乱させる。そうして心を刺激し、性質を鍛え、できないことを可能にさせるのである) |
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ということである。 真の名誉は、天命を成就することにあり、それを全うしようとして招いた死は決して不名誉ではない。これに反して、天が与えようとするものを避けるための死は、じつに卑怯である! トーマス・ブラウンの奇書
『医道宗教』 の中に、日本の武士道がくり返し教えていることとまったく同じことを意味する言葉がある。それを引用しよう。 「死を軽んずるのは勇気の行為である。しかし、生が死よりもさらに怖ろしい場合には、あえて生きることが真の勇気である。」 十七世紀のある高名な僧侶は、いささか諷刺ふうし
をまじえながら、 「平生どてほど口達者でも、死んだことのないサムライは、まさかの時に逃げ隠れするものだ」 あるいは 「一度心に中で死んだ者には、真田の鎗も、為朝の矢も通らない」
と言った。これらの言葉は、 「わがため自分の生命を失う者はこtれを救おう」 と教えた偉大なキリストの宮殿の門に、私たち日本人をどれほど近づけていることだろう。 これらは、キリスト教徒と異教徒との間の差異を出来るだけ大きなものにしようとする懸命な試みがあるにもかかわらず、人類の道徳的一体性を確かめるのに資する膨大な例証の中に、ほん二、三であるにすぎない。 |