〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part W-V』 〜 〜
==武 士 道 ==
(著:新渡戸 稲造 訳:山本 博文)
 

2015/11/07 (土) 

切 腹 の 情 景

好古趣味の好奇心からだけでも、私は、今は廃止されたこの儀式を描写してみたい気持になる。しかし、はるかに有能な著述家によて、すでにその一つの描写がなされている。その書物は今はあまり読まれていないので、やや長く引用しよう。
イギリスの外交官ミットフォードは、その 『旧日本の物語』 の中で、切腹についての記述を日本の珍しい子文書から訳出した後、彼自身が目撃した切腹執行の実例を紹介している。

われわれ (七人の外国代表者) は日本側の検使 (切腹を見届ける使者) に案内されて、儀式が執行される寺院の本堂に入っていった。それは荘厳な光景だった。本堂は天井が高く、黒ずんだ木の柱で支えられていた。天井からは、仏教寺院に特有な巨大な金色の灯籠やその他の装飾がたくさん下がっていた。高い仏壇の前には美しい青畳が敷かれ、床よりも三、四寸ほど高くなっており、そこに緋毛氈ひもうせん が敷かれていた。高いろうそく立てが程よい感覚に置かれ、薄暗い神秘的な光を放っており、これから起こることを見渡すにちょうどよい明るさだった。七人の日本側検使は高座の左に、七人の外国検使は右に着座した。それ以外には一人もいなかった。
しばらく緊張して待った後、滝善三郎が、麻裃あさかみしも の礼装で静かに本堂に入って来た。彼は年齢三十二歳のたくましい、気品のある男だった。一人の介錯と三人の陣羽織 (金の刺繍のある折る返しのついた上着) を着用した役人が付いて来た。
「介錯」 という用語は、英国の 「エクセキューショナー (処刑人) 」 とは違うことを知っておく必要がある。この役目は紳士の任務であり、多くの場合罪人の一族または友人が務める。両者の関係は、罪人と死刑執行人というよりも、むしろ主役と輔佐の関係である。善三郎の場合、介錯は彼の門弟であり、剣の技量が秀でていたため彼の友人たちが選び出したのであった。
介錯を左に従え、善三郎はゆっくりと日本側検使のほうへ進み、両人ともにお辞儀をした。次に外国人の方に近づき、われわれにも同様に、たぶん一段と丁寧にお辞儀をした。どちらの場合も、うやうや しく礼が返された。ゆっくりと威厳に満ちた様子で、善三郎は畳の上へのぼり、仏壇の前で二度拝礼した後、仏壇に背を向けて緋毛氈の上に端座し、介錯は彼の左側にうずくまった。
三人の付添役人の一人が、やがて、、紙に包んだ脇差を神仏に供え物をする時に用いられる一種の台 (三宝) の上に載せて出て来た。脇差とは、日本人の短刀もしくは匕首で、長さ九寸五分 (原文では九・五インチ) 、カミソリのように鋭い切っ先と刃の刀である。役人は、一礼をして三宝を切 善三郎に渡した。彼は、それを恭しく受け取って、両手で頭の高さまで押し頂いて、自分の前に置いた。
再び深々とお辞儀をした後、善三郎は、次ぎのように言った。声には痛ましい告白をする人から期待される程度の感情と躊躇ちゅうちょ が表われたが、顔色や態度はまったく変わることはなかった。
「拙者は、独断により無分別にも神戸で外国人に発砲の命令を下し、逃げようとするのを見て再び撃ちかけさせた。拙者は、この罪を背負って切腹いたす。おのおの方には検使の御役目ご苦労に存ずる。」
もう一度お辞儀をして、善三郎は、その上衣を帯元まで脱ぎ下げ、上半身裸となった。作法どおり、注意深く両袖を膝の下に敷き込んだが、これは後ろ向きに倒れないやめだった。というのは、誇り高い日本の武士は、前に伏して死ぬべきだとされていたからである。
彼は。前に置かれた短刀をしっかりと手に取り、嬉しげに、ほとんど愛着するかのようにこれを眺めた。しばらく最期の時に向けて精神を集中しているように見えたが、突然左の腹を深く刺して、静かに右に引き廻し、また元に返して上方へ少し切り上げた。この凄まじく痛ましい動作の間、彼は顔の筋ひとつ動かさなかった。
彼は短刀を引き抜き、前に身体を傾け首を差し出した。初めてその顔に苦痛の表情がよぎったが、声一つ立てなかった。その瞬間、彼の側にじっとかがんで、その一挙一動を身じろぎもせず見守っていた介錯は、すばやく立ち上がり、太刀をしばし空中に構えた。刀が一閃いっせん し、いやな鈍い響き、砕けるように倒れる音がした。一撃のもとに首と胴体は切り離されたのだ。
場内は静まりかえり、ただわれわれの前の動かない胴体からほとばしり出る血の凄まじい音だけが聞こえた。この胴体の主こそ、ついさっきまでは、勇敢で剛毅な武士だったのである。それは恐ろしいことだった。
介錯は平伏して礼をし、かねて用意した白紙を取り出して刀を拭い、畳の上から降りた。血染めの短刀は、仕置きの証拠としておごそかに持ち去られた。
ミカドの代表二人は、その座を立って外国人検使の前に来て、 「滝善三郎の処刑は滞りなく済み申した。見届けられたか」 と声を掛けた。儀式はこれで終わり、われわれは寺院を去った。

日本の文学作品や目撃者の談話から切腹の情景を引用しようとすれば、枚挙にいとまないが、もう一例あげれば十分だろう。
左近と内記という、兄が二十四歳、弟が十七歳の兄弟がいた。父の仇を報いるため、家康を殺そうとした。しかし、陣屋に忍び込もうとして捕われの身となった。
家康は、自分の命を狙った若者の勇気を賞讃し、名誉ある死を許せ、と命じた。二人の小さな弟の八麿はわずか八歳の小児だったが、同じ運命を宣告された。というのは、処刑は一族の男子すべてに下されるものだったからである。
三人は、死刑が執行される寺院へ連行された。その場に居合わせた一人の医者が書き残した日記から、その情景を引用しよう。
三人が一列に並んで最期の座に着いた時、左近は末弟に向かって、 「お前が真っ先に行け、切り損じないように見届けてやるから」 と言った。
八麿が、切腹をまだ見たことがないので兄さんたちがするのを見たい、そうすれば同じように出来るから、と言うと、左近は、涙ながらにほほ笑み、 「よくぞ申した! お前はわが父上の子であることに恥じない」 と言った。
二人は、間に八麿を座らせ、左近は左の腹に刀を突き立てて、 「弟よ、これを見ろ。わかったか。あまり深く突き刺すな、後ろ向きに倒れるといけないからな。うつ伏して、膝をくずすな」 と教え、内記も同様にして末弟に、 「目をかっと見開け、そうでないと女の死に顔のように見えるぞ。刀になにか障っても、力が衰えても、勇気をふるって引き廻せ」 と教えた。
八麿は、兄たちのやり方を左右へ目をやって見届け、両人の息が絶えると、静かに肌を脱いで、教えられた通りに見事に腹を切った。
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