〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part W-V』 〜 〜
==武 士 道 ==
(著:新渡戸 稲造 訳:山本 博文)
 

2015/11/06 (金) 

切 腹 は 法 律 上 な ら び に 礼 法 上 の 制 度

私は、自殺の宗教的もしくは道徳的正当化を主張しているわけではない。しかしながら、名誉に高く評価を置く考え方は、多くの者がみずから命を絶つ十分な理由を提供した。

名誉が失われた時は、死ぬことこそが救い、
死は恥辱からの確実な避難所である。
イギリスの詩人ガースがうたった感情に、どれほど多くの人が同感して、ほほえみながら自分の命を絶ったことだろうか! 名誉の問題を伴っての死は、武士道では多くの複雑な問題を解決する鍵として承認された。このため志ある武士は、自然な死に方にはむしろふがいないこととみなし、望むべき最期ではないと考えた。
あえて言えば、善良な多くのキリスト教徒も、もし彼らが十分に正直であれば、カトーやブルータスや、ペロトニウスや、他の昔の多くの偉人が地上における命をみずから絶った際の崇高な態度に対し、積極的には賞讃しないまでも、それに心を惹かれると告白することであろう。
哲学の始祖ソクラテスの死も、自殺的側面があったと言うといい過ぎだろうか。彼が、逃れる可能性があったにもかかわらず、国家の命令 ──彼は道徳的に誤りだと知っていた ── に進んで服従したこと、そして彼がみずからの手に独盃を取り、その中身を地に注いで神への捧げ物にした様子を、彼の弟子たちは詳細に述べている。それを読む時、私たちは彼の全行動および態度の中に自殺的行為を認めるのではないだろうか。ソクラテスの場合、ふつうの死刑執行の時のような物理的強制はなかったのである。
なるほど、裁判官の判決 ── 「なんじは死ぬべきである、しかもなんじ自身の手によって」 は強制的だった。もし自殺が、ただ自分の手によって死ぬことだけを意味するとしたら、ソクラテスの場合は明らかに自殺だった。
しかし、だれもソクラテスにその罪を負わせようとしないだろう。自殺を嫌悪したプラトンは、自分の師を自殺者とは呼ばなかった。
すでに読者は、切腹が単なる自殺の方法ではなかったことをおわかりになっただろう。
切腹は法律上ならびに礼法上の一つの制度だった。それは中世に発明された。武士が罪をつぐない、過ちを詫び、恥を免れ、友を救い、自己の誠実を証明する行為だった。
切腹が法律上の罰として強制される場合は、荘重な儀式をもって執り行われた。それは洗練された自殺であり、極度に冷静な感情と落ち着いた態度なくしては誰も成し遂げることなど出来なかった。こうした強い精神力が必要だったからこそ、切腹はとりわけ武士の身分にふさわしいものとされたのである。
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