日本人の心の中でセップク
(切腹) がまったく不条理と感じられていないのは、単に外国の切腹の事例との連想のためだけではない。というのは、とくに身体のこの部分を選んで切るのは、魂と愛情が宿るところであるという古い解剖学的信念にもとづくからである。 モーゼは、
「ヨセフの内臓 bowels が弟のことを慕う」 と書き、ダビデが、主に彼の内臓を忘れないようにと祈り、またイザヤ、エレミヤやその他いにしえの霊感を受けた人びとが内蔵が
「鳴る」 とか 「痛む」 とか言った。この時、彼らはみな、腹に魂が宿るという日本人の間に行き渡った信念を表明しているのである。セム族は、習慣的に肝臓、腎臓、およびその周辺の脂肪を、感情と生命の宿るところだと言う。 この
「ハラ」 という言葉の意味は、ギリシャ語の 「フレーン (心) 」 や 「テューモス (激情)
」 よりももっと広いものだが、日本人もギリシャ人も同じく、人間の魂はこの部分に宿ると考えたのである。 このように考えるのは、決して古代の民族に限ったことではない。フランスのもっとも優れた哲学者の一人であるデカルトが、魂は松果腺に宿るという説を唱えたにもかかわらず、フランス人は、解剖学的にはあまりにも漠然としているは生理学情は意味がはっきりしている
「ヴァントル (腹部) 」 という言葉を、今なお魂の意味に用いている。同様に、フランス語の 「アントライユ (腹部)
という言葉は、フランス語では情愛や同情の意味で使われている。 このような信念は、単なる迷信ではない。心臓を感情の中枢とする一般的な観念よりも科学的である。修道士に尋ねなくても、ロミオ以上に日本人は、
「この死体のどの部分に人の名が宿るか」 を知っている。 近代の神経学者は、腹部脳髄、腰部脳髄という意味で、その部分にあって精神作用により強い刺激を受ける交感神経中枢を示す。この精神生理学が認められるならば、切腹の論理はたやすく構築できる。それは、
「私は、私の魂の宿るところを開いて、あなたに様子を見せよう。それが汚れているか、清いかは、あなた自身で判断せよ」 ということである。 |