前章の末尾で触れたこの二つの制度
(前者はハラキリ、後者はカタキウチとして知られている) については、多くの外国人著述家がそれなりに詳しく言及してきた。 まず自殺について、私は切腹もしくは割腹、俗に
「ハラキリ」 として知られているものに限定して考察することを断っておきたい。これは、腹部を切って自殺することである。 「腹を切る? なんて馬鹿な!」
── 初めてこの言葉を聞いた人は、そう叫ぶだろう。外国人には、最初は馬鹿げて奇異に聞こえるかもしれないが、シェイクスピアを学んだ者にはそれほど変わったことではない。彼はブルータスに
「あなた (シーザー) の霊魂が現れ、われわれの剣を自分自身の腹に向けさせる」 と言わせているからである。 また近代のあるイギリスの詩人は、その詩集
『アジアの光』 の中で、剣が女王の腹を貫く様子を詠じている。── そして誰も、無作法な英語だとか、節度を欠いているとか非難することはない。 あるいはまた、別の一例をあげれば、ジェノのパラッツォ・ロッサにあるゲルチーノの絵
『カトーの死』 を見てみよ。アディソンがカトーにうたわせている辞世の詩を読む者は、だれもその腹に深く刺した劍のことを嘲笑しないだろう。 日本人の心には、この死に方がもっとも気高い行為やもっとも感動的な悲話の実例と結びついているので、切腹はまったく嫌悪感はなく、まして嘲笑すべきものではない。美徳と偉大さと優しさの持つ影響力には驚くべきものがあって、もっともおぞましい死に方でさえ、そこに崇高さを帯びさせ、新しい生命の象徴ともするのである。そうでなければ、コンスタンティヌス
(キリスト教を公認した西ローマ帝国皇帝) が見たしるし (十字架) が、世界を征服することはなかっただろう。 |