〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part W-V』 〜 〜
==武 士 道 ==
(著:新渡戸 稲造 訳:山本 博文)
 

2015/11/05 (木) 

感 情 の 抑 制

忍耐 fortitude の訓練が、一方において物も言わずに耐えることを植え付け、礼の教えが、他方において私たち自身の悲しみや苦痛をあらわにすることで他人の喜びや静穏を損なってはいけないとする要求する。この両者が結合して、ストイックな気質をうみ、見かけ上の禁欲主義的な国民的性格を形成した。
私が 「見かけ上」 ろいうのは、真の禁欲主義は一国民全体の特性とはなりえないと信じているからであり、また一つには、日本人の作法および習慣の中には、外国人観察者にとっては冷酷無情と映るものがあるかも知れないからである。
いかし、私たち日本人は、じっさいにこの空の下に住むどんp民族にも劣らないほど優しい感情にとらわれる。
ある意味において日本人は、他の民族以上に ── いや、何倍も ── 物に感じやすいがずだと私は考える。というのも、自然な感情の動きを抑制する努力そもものが、苦痛を伴うからである。
感情が高ぶったからといって涙を流したり、呻き声をあげたりしてはならないと教育された少年を ── そして少女も ── 想像してみよ。そこには、こういう努力が少年少女の神経を鈍感にするか、それとも一層鋭敏にするか、という生理学上の問題がある。
サムライが感情を顔に出すのは、男らしくないと考えられた。 「喜怒色にあらわさず」 というのが、大人物を描写するのに使われる文句だった。もっとも自然な愛情すら抑制された。
父親が息子を抱くと威厳を損なうとされ、夫は妻にキスしない習慣だった ── 家の中ではしたかもしれないが、人前ではしなかった。ウィットのある青年が言った、 「アメリカ人の夫は妻と他人の前でキスし、私室では殴る。日本人の夫は妻を人前で殴り、私室ではキスする」 という言葉には、いくぶんかの真理があるだろう。
落ち着いた振る舞いや心の平静は、どんな種類の激情にも乱されてはならない。最近の中国との戦争 (日清戦争) の際、ある連隊が某市から出発する時、多くの群集が連隊長以下その軍隊に別れを告げるために駅に集まったことを私は思い出す。
この時、一人のアメリカ人が、大声をあげての感情表現が見られることを期待して、そこへ行ってみた。国民全員が大いに興奮していたい、群集の中には兵士たちの父母や妻や恋人たちがいたからである。
このアメリカ人は予想外の感を抱いてがっかりした。というのも、汽笛が鳴り、列車が動き始めると、何千人もの人びとは黙って帽子をぬぎ、頭を下げてうやうやしく別れを告げただけだった。ハンカチを振る人もなく、一言も発する人もいない。ただ深い沈黙の中で、耳を澄ませばわずかにすすり泣きが聞こえた。
家庭生活においても、父親は弱さを示す振る舞いを気づかれないように、いく」晩も、病気の息子の息づかいに耳を傾けながら襖のかげに立ち尽くした。臨終の際に、息子の勉学に妨げにならないようにと、呼びにやることを固持した母親もいる。
日本人の歴史や日常生活には、プルタークのもっとも感動的な場面にも十分匹敵する、英雄的な母親の実例がたくさんある。スコットランドの作家イアン・マクラレンは、わが国農民の間に、多くのマーゲット・ホウ (マクラレン作中の賢母) を見出すに違いない。

『武 士 道』 著:新渡戸 稲造 訳:山本 博文 ヨリ
Next