西洋の個人主義は、父と子、夫と妻に別々の利害を持つことを認める。それゆえ必然的に、人が他人に対して負う義務は大きく軽滅されることになる。しかし武士道は、家族とその成員の利害は一体
── つまり一にして不可分 ── だとみなしyた。この利害は、愛情 ── 自然で本能的で誰も抗し得ないもの ── と結びつけられた。 そうであるなら、もし私たちが、(動物でさえ持つ)
自然の愛情によって愛する者のために死んだとしても、それが何であろうか。 「自分を愛する者を愛したとしても、何の報いを得られるだろうか。徴税人でさえ同じことをしているではないか」
( 『マタイ福音所書』 ) 。 頼山陽は、その大著 『日本外史」 において、父清盛の反逆行為をめぐる平重盛の胸中の葛藤を、感動的な言葉で物語っている。 「忠ならんと欲すれば孝ならず。孝ならんと欲すれば忠ならず。」 なんと哀れな重盛!
私たちは、のちに重盛が、純粋であることと正義を貫くことが困難な現世から開放されるべく、情け深い天が死をもって自分を迎えに来てくれるよう祈るのを見るのである。 多くの
「重盛」 が、義務と愛情の間で葛藤し、心を引き裂かれた。実際、シェイクスピアにも 『旧約聖書』 にも、日本人の親への尊敬の念を示す概念である 「孝」 に相当する適当な言葉はない。しかし、こにょうな葛藤の場で、武士道は忠義を選ぶのに決してためらわなかった。 女性も、自分の子を励まして、すべてを主君のために犠牲にさせた。チャールズ一世の臣ウィンダムの未亡人とその名高い夫に劣らず、サムライの妻は、忠義のためにはその男子を棄てる覚悟が出来ていたのである。 |