〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part W-V』 〜 〜
==武 士 道 ==
(著:新渡戸 稲造 訳:山本 博文)
 

2015/11/03 (火) 

主 君 の 身 代 わ り に な っ た 子 供

その物語は、わが国の歴史上最大の人物の一人である菅原道真に関するものである (菅原伝授手習鑑) 。は、嫉妬と中傷の犠牲となって、都から追放された。無慈悲な彼の敵は、これに満足せっず、一族を根絶やしにしようとした。まだ幼い彼の子の所在を厳しく捜索し。彼のかつての家来源蔵が、ひそかにその子を寺小屋にかくま っていることを探り当てた。源蔵に対して、決められた日に幼い罪人の首を渡すよう命令が発せられた時、彼が先ず考えたのは、適当な身代わりを見つけることだった。
彼は、寺小屋の名簿をながめて思案し、そこに通って来る少年全員を注意深く見つめたが、田舎生まれの子供の中には、彼が匿っている子に少しでも似た者はいなかった。しかし、彼が絶望したのは、ほんのつかの間のことだった。というのは、一人の新しい児童がいることを知らされたからである。── 上品な母親に連れられて来たのは、主君の子と同じ年頃の美しい少年だった。
幼い主君とその少年とがよく似ていることを、その母親も知り、少年自身も知っていた。
家の奥の部屋で、母と子は祭壇に身を捧げたのだった。── 子はその生命を、母はその心を。しかし外にはその気配すらもらさなかった。二人の間での決意などまったく知らないまま、源蔵はひそかに心に決めた。ここに犠牲の山羊が手に入った!
物語の続きについては手短に述べよう。指定の日に、少年の首を確認して受け取る任務を持った役人が到着した。にせ首で彼はだまされるだろうか。あわれな源蔵は、刀の柄を手にかけ、もしこの計略が見破られたら、その役人か自分自身かに一撃を加えようと身構えた。役人は、目の前に置かれた恐ろしいものを取り上げ、じっくり眺め、事務的な口調で、その首は本物だと述べた。
── その夜、一人になった家で、母親は誰かを待っている。彼女は子供の運命を知っているのだろうか。彼女は戸口が開くのをじっと見守っているが、子供の帰りを待っているのではない。彼女のしゅうと は、長い間道真から恩顧を受けていた。道真が流罪になってから、彼女の夫はやむを得ず一家の恩人の敵に仕えることになった。夫自身は、自分の残酷な主君に対して不忠を構えることが出来なかった。しかし、その息子であれば、祖父の主君のために役立ち得たのである。
若君の首実検を命じられたのは彼だったのだ。今、その日の ── いや一生の ── 辛い仕事を果たし、家に帰り、その敷居をまたぐと同時に、妻に呼びかけて言った。
「妻よ、喜べ、かわいい息子は、主君のお役に立ったぞ!」
「何と残酷な物語だ!」 こう読者が叫ぶのが聞こえるようだ。 「両親が、他人の子を助けるために、罪もないわが子を犠牲にするとは!」 ── しかし、その子は承知のうえで、進んで犠牲になったのである。
これは、身代わりの死の物語である。── アブラハムが息子イサクを犠牲に捧げようとした物語と同じくらい意味深い話であり、それ以上に嫌悪すべきものではない。どちらの場合も、義務の命ずる声への服従、上からの声が命令することへの無条件の従順なのである。── その命令が、目に見える天使から与えられたか、目に見えない天使から与えられたか、また実際に耳に聞こえたか、子k露の耳に聞こえたかはどうであっても。── しかし説教は控えよう。

『武 士 道』 著:新渡戸 稲造 訳:山本 博文 ヨリ
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