わが国の文学は、シェイクスピアが
『ジョン王』 の登場人物ノーフォーク伯にしゃべらせたような雄弁さに欠けるが、恥辱を極度に恐れたため、その恐怖はあらゆるサムライの頭上にダモレクスの剣のようにのしかかった、病的性質を帯びることもあった。武士道の掟ではまったく正当化されない行為が、名誉の名のもとになされた。 きわめて些細な、いや、というよりも妄想にすぎないような侮辱に対してでさえ、短気で傲慢な者は腹を立て、たちまち刀に訴えた。そして、無用な争い事が起こり、多くの罪もない人命が失われた。 ある町人が、背中にノミが跳ねていると武士に好意から注意したところ、すぐさま真っ二つに斬られた、という話がある。ノミは畜生にたかる虫だから、高貴な武士を畜生と同一視するのは許しがたい侮辱だという、単純で怪しげな理由からである。──
こんな話は、まりにもばかげていて信じられない。 しかし、こんな話が流布したというのは、次の三つのことを意味している。 (一) このような話は平民を恐怖させるために作られた。 (二)
サムライという名誉ある地位の悪用が、実際に行われていた。 (三) サムライの間にはきわめて強い恥じの感覚が発達していた。 異常な一例をもって武士道の教えを非難するのは、明らかに不公平だ。それは、キリストの真の教えを、宗教的熱狂やその行き過ぎの産物
── 異端審問や偽善 ── から判断するのが不公平なのと同じである。 しかし、宗教的偏執にも、酔っぱらいの狂態に比べれば、何か人を動かす高貴なものがあるのと同じように、サムライがその名誉について極端に敏感なことも、純粋な徳性の根っこがあるのを認められないだろうか。 |