〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part W-V』 〜 〜
==武 士 道 ==
(著:新渡戸 稲造 訳:山本 博文)
 

2015/11/01 (日) 

商 業 を 嫌 悪 し た 武 士 階 級

今、私は、武士道の信の概念について述べていることはわかっている。しかし、わが国民の商業道徳について数言を費やすことは的外れでないと思う。これについて、外国の書物や新聞で、不満をよく耳にするからである。
商業道徳がルーズであることは、まったくもってわが国民の名声上、最悪の汚点であった。しかし、それをののし ったり、国民全体を性急に非難する前に、冷静に研究してみようではないか。そうすれば、将来に対する慰めで報いられることになるだろう。
人間の営むすべての貴い職業のうち、商業ほど武士道と遠くかけ離れたものはなかった。
商人は、職業による身分の中で最下位に置かれた。── 士農工商である。武士は、その収入を土地から得ており、その気になれば素人農業をすることも出来た。しかし、帳場と算盤そろばん は嫌悪された。
私たちは、この社会的取り決めの持つ智恵を理解してる。モンテスキューは、貴族を商業から閉め出すことは、富が権力者の手に集中することを防ぐという点で、望ましい社会政策であることを明らかにした。権力と富とを分離することは、より平等な富の分配の実現に資する。
ディル教授は、著書 『西ローマ帝国最後の世紀におけるローマ社会』 において、ローマ帝国衰亡の原因の一つは、貴族が商業に従事することを許し、その結果として少数の元老の家族によって富と権力が独占されたことにあると論じ、あらためて私たちに注意を促している。
それゆえ、封建時代における日本の商業は、もっと自由な条件のもとであれば到達したであろう発展段階には達しなかった。商業に対する軽蔑の念ゆえに、おのずと社会的評判などほとんど気にしない連中がその職業に集まることになったのである。
「人を泥棒呼ばわりすれば、彼は泥棒となる」 ── ある職業に汚名を授ければ、それに従事する人は、みずからの道徳をその水準に合わせるものだ。ヒュー・ブラックの言うように、 「清浄な良心は、それに対して求められる水準まで昇り、それに対して期待される水準の下限にまで簡単に低下する」 からである。
付言するまでもないことだが、商業であれ、他の職業であれ、道徳の掟なしに営まれることはあり得ない。封建時代のわが国の商人も、彼らの間では道徳があった。いまだ未発達の状態にあったとはいえ、それなくして同業組合ギ ル ド 、銀行、取引所、保険、手形、為替などのような基本的な商業制度を発達させることは出来なかったであろう。
しかし、彼らの職業以外の人びととの関係においては、商人は自分たちの身分の評判にあまりにも忠実にふるまった。このような事情だから、わが国が外国貿易に開かれた時、開港場に押し寄せたのはひと儲けをたくらむ無節操な連中ばかりで、まともな商家は、何度も幕府から支店を開くように要請されても、断り続けたのである。
では武士道は、商業での不名誉な風潮を阻止するのに無力だったのだろうか。その点を見てみよう。

『武 士 道』 著:新渡戸 稲造 訳:山本 博文 ヨリ
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