信
veracity すなわち誠 sincerity がなければ、礼は茶番や見世物になってしまう。伊達政宗は、 「礼が過ぎると嘘になる」 と言う。 「心だに誠の道にかないなば、祈らずとても神や守らん
(心さえ誠の道にかなっていれば、祈らなくても神は守ってくれる) 」 と言った昔の歌人は、ポリーニアス (シェクスピアの
『ハムレット』 に出れ来る人物) を凌駕
している。 孔子は、『中庸』 の中で、誠を尊び、それに超越的な力があると考え、ほとんど神と同一視している。 「誠は物の終始なり。誠ならざれば物なし
(誠は者の究極である。誠がなければ物もない) 」。さらに孔子は、誠の遠大にして悠久なる性質、動かずして変化を生み、ただ存在するのみで無為にして目的を達する力について、雄弁に述べている。
「誠」 という漢字は、 「言 word 」 と 「成 perfect 」 を組み合わせたものであり、そこから新プラトン派の 「ロゴス」 の説との類似性を想起する者もいるであろう
── これほどの高みにまで、孔子は非凡な神秘的跳躍によって達したのだ。 嘘やごまかしは、ともに卑怯とみなされた。武士は、みずからの社会的地位の高さゆえ、商人や農民よりも高い水準の信を要求されると考えた。
「武士の一言いちごん 」 ──
サムライの言葉、あるいはドイツ語で言う 「リッターボルト (騎士の言葉) 」 とまったく同じ意味 ── は、その言葉が真実であることの十分な保証であった。 武士の言葉には重みがあり、その約束は一般に証文なしで結ばれ、かつ履行された。証文などを書くことは、武士の威厳にもとることだと考えられたからだろう。
「二言にごん 」 、つまり二枚舌を死によって償った人びとについて、多くの恐ろしい物語が伝わっている。 信は、このように重んじられたので、真のサムライは誓いをなすこと自体がみずからの名誉を損なうものと考えた。この点、一般のキリスト教徒が、彼らの主の
「誓うなかれ」 という明瞭な命令を絶えず犯しているのとは異なる。 もっとも武士が、八百万の神の名や刀にかけて誓ったことを、私はよく知っている。しかしその誓いは、決してふざけた形式や
(My Gode!のような) 不敬虔な間投詞に堕することはなかった。彼らは、その言葉を強調するため、時として文字通り 「血判」 をもすえた。 ── こういうやり方の説明としては、読者にゲーテの
『ファウスト』 を参照してもらえば十分だろう。 |