茶の湯は、一つの儀式以上のものである
── それは、芸術である。それは、リズミカルな洗練された動作をともなった詩である。それは精神修養の実践方式である。その最大の価値は、この最後にあげた点にある。茶の湯の愛好者には、それ以外の点に重点が置かれる場合もしばしばあるが、それは茶の湯の本質が精神的性質のものではないとの証明にはならない。 礼は、たとえ振る舞いに優雅さを加えるだけだとしても、大いに意味がある。ところがその働きは、これに留まらない。というのは、礼は仁と謙譲を動機として生まれ、他人の感受性に対するやさしい感情によって始動するものだから、いつも優雅な同情心として現れる。 礼は、私たちが泣く者とともに泣き、喜ぶ者とともに喜ぶことを要求する。このような教訓的な要請が、日常生活の些細な点にまで至る時には、ほとんどの人の注意をひかない、ささやかな行為の中に現れる。あるいはもし仮に注意をひくとしても、在日二十年の宣教師夫妻が以前私に語ったように、
「おそろしくおかしい」 行為に見えるのである。 あなたは照りつける暑い日射しのもと、日傘もささずに戸外にいる。日本人の知り合いが通りかかる。あなたは彼に挨拶する。すると彼がすぐ帽子をとる。──
よろしい、これはきわめて自然のことである。しかし、彼が、なたと話している間じゅう、自分の日傘を下して、照りつける太陽のもとに立っているというのは、 「おそろしくおかしい」
行動である。 何と馬鹿げたことだろう! そう、その通りかもしれない。しかし、彼の動機は次のことにあるのだ。── 「あなたは炎天下にいます。私はあなたに同情します。もし私の日傘が十分大きければ、あるいは私たちが親密な知り合いならば、私は喜んであなたを私の日傘の下に入れてあげたい。しかし、私はあなたを陰に入れることが出来ないから、せめてあなたの苦痛を分かち合いたいと思います。」 これと同じぐらい、あるいはもっと面白いこの種の行動は、単なる身振りや習慣だけのものではない。こうした行為は、他人の快不快に向けられた思いやり深い感情の表現なのである。 |