もう一つの
「おそろしくおかしい」 習慣は、わが国の礼の規範によって定められている。しかし、日本について浅薄な文章を書く人の多くは、これを日本人に一般的な、本末転倒の習慣にすぎないと簡単に片付けている。この習慣に接した外国人は、その機会に適当な返答をするのに当惑を感じたことを告白するだろう。 アメリカにおいては、贈り物をする時、贈る側は受け取る人にその品物を褒めそやす。しかし、日本ではこれを軽んじたり、悪く言ったりする。 アメリカ人の底意
は、こうである。 「これはすばらしい品物です。もしそうでなければ、私はそれをあなたにあげたりはしないでしょう。およそ良い品物以外の物をあなたにあげることは、無礼でしょうから。」 これとは対照的に、日本人の気持は次のようなものである。 「あなたはいい人です。どんな品物もあなたには十分ふさわしくはありません。何をあなたの足下に置いても、あなたは私の好意のしるしとして以外には受け取ってもらえないでしょう。この品物を、物そのものの価値ではなく、しるしとして受け取ってください。最高の贈り物であっても、それをあなたにふさわしいほどすばらしいと言うことは、あなたの価値に対しての侮辱になりでしょう。」 この二つの考え方を並べてみれば、究極のところでまったく同じ考えであることがわかる。どちらも、
「おそろそくおかしい」 ことではない。アメリカ人は贈り物の素材について言っており、日本人は贈り物をするに至った気持のことを言っているのである。 私たち日本人の礼儀感覚が、その振る舞いのあらゆる枝葉末節にまで現れるからといって、その中のもっともつまらないものを取り上げ、それを典型とみなし、それによって原理そのものを批判するのは、誤った結論の導き方である。 食事をすることと、食事の礼法を守ることと、どちらが重要なのか。中国の賢人
(孟子) は答える。 『食べることがすべてである者と、礼法がほとんど重要でない者をとりあげ、両者を比べて食べることがより重要であるということが出来るだろうか」
と。 また言う。 「金属は羽より重いと言うが、一片の金属と荷車に満載した羽と比べて言うことが出来るだろうか。三十センチばかりの厚さの木切れをとって、それを寺院の頂に置いても、その木が寺院よりも高いとは誰も言わないだろう」
と。 「真実を語ることと、礼儀正しくあるのと、どちらが重要か」 という問いに対して、日本人はアメリカ人とは正反対の返答をすると言われる。── しかし私は、信と誠について述べるまで、この点についての論評を差し控えよう。 |