〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part W-V』 〜 〜
==武 士 道 ==
(著:新渡戸 稲造 訳:山本 博文)
 

2015/10/30 (金) 

優 雅 さ の 持 つ 力  

優雅さが、力の効率的使用を意味するといおうことが真実であれば、その論理的帰結として、優雅な振る舞いをたえず実行していれば、力を備え、蓄えることになるであろう。それゆえ、上品な振る舞いは、休止状態にある力を意味する。
野蛮なゴール人がローマを掠奪した際、会議中の元老院に乱入し、尊敬すべき元老たちの髭を引っぱるという無礼を働いた時、私たちは同時に、元老たちの態度が威厳と力を欠いていたことにも問題があると考える。
だが、それでもなお礼儀作法を守れば、高い精神的境地に達することが出来るだろうか。どうぢて出来ないことがあろう? ── 「すべての道はローマに通ずる」 のだから!
もっとも単純なことが、一つの芸術に仕立て上げられて、精神修養になり得ることの一例として、 「茶の湯」 すなわち茶の儀式をあげることが出来る。茶をすすることが芸術! どうしてそれがいけないだろうか。砂に絵を描く子供たち、あるいは岩を彫刻する未開人の中に、ラファエロやミケランンジェロの芽があったのである。まして、ヒンズー教の隠者の瞑想に伴って始まった茶を飲むという行為が、宗教と道徳の補助的な役割を果たすぐらいになで育つ資格は、十分にあるのではないか。
茶の湯の必須の要素でである心の平静、気持の静穏、振る舞いの静けさと落ち着きが、たしかに正しい思考と正しい感情の第一条件であることは疑いあるまい。騒がしい群集の姿や喧噪から遮断された、小さな茶室の徹底した清浄ぶりは、それ自体が人の思いを世俗から離れさせる力を持つ。清貧な室内には、西洋の客間の数え切れない絵画や装飾品のように人の注意を奪い去るものはなく、 「掛物」 がかかっていても、それは色彩の美よりもむしろ構図の優雅さで私たちの注意をひく。
趣味を最高に洗練することが目的であり、わずかな虚飾さえも宗教的嫌悪をもって追放される。
戦争、そして戦争の噂の絶え間ない時代にあって、一人の瞑想的隠遁者 (千利休) によって考案されたという事実そのものが、この作法が遊戯以上のものであることを示すのに十分である。茶の湯に出席する人びとは、茶室という静寂境に入るに先立ち、彼らは腰にした両刀とともに、戦場での蛮行や政治上の心配事を置き去り、室内に平和と友情を見出したのである。

『武 士 道』 著:新渡戸 稲造 訳:山本 博文 ヨリ
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