社会的礼儀の、精神的意義
── あるいは (カーライルの著作) 『衣服哲学』 の用語を借りれば、礼儀作法や儀式は、精神的規律の単なる外衣にすぐないと言ってもよい ── は、その見かけ上の形から我われが信じ込んでいる意義とは比べもににならないほど大きい。 私は、スペンサー氏の例にならって、わが国の礼式制度の中に、それらを生み出した起源や道徳的動機をたどってもよい。しかし、それは私が本書でしようとしていることではない。礼儀を厳しく遵守することの中に道徳的な訓練が伴われていること、これこそ私が強調したいと思っていることである。 礼儀作法は、たいへん細かい点まで入念に定められ、そのため異なる体系を唱えるさまざまな流派が現れたことは、すでに述べた。しかし、それらの流派もみな、究極の本質においては一致していた。 この点についても、もっとも有名な礼儀作法の流派である小笠原流は、次ぎのように述べている。
── 「すべての礼儀作法の目的は、心を修練することにある。心静かに端座すれば、殺人者が剣を持って向かっても、危害を加えることが出来ない」 と。 言い換えれば、正しい礼儀作法をたえず修練すれば、身体のあらゆる部分、あらゆる機能に完全な秩序がもたらされるようになり、身体そのもにとそれを取り巻く環境とが調和し、肉体を精神が統御するようになる、ということである。こう考えると、フランス語のビヤンセアンス
(礼儀作法 bienseance 【原注】 語源的には、正座) という言葉が、どんなに新しく、かつ深い意味を持つことになるだろうか。 |