丁重で上品な物腰が日本人の特性であることを、外国人旅行者は気づいている。礼
polいteness は、もし単に品のよさが損なわれるのを恐れて、なされるのであれば貧弱な徳である。なぜなら、本当の礼とは他人の気持を思いやる心のあらわれだからだ。 礼は、なた物の道理を正しく尊重すること、それゆえ社会的地位に対し相応の敬意を払うことを意味する。社会的地位は、金銭的な貧富の差を示しているのではなく、本来、実際の価値に基づいた差があることを示しているからである。 礼は、その最高の形においてほとんど愛に近づく。私たちは、敬虔な気持で、礼は
「長い苦難にも耐え忍び、親切で妬
みの心を持たず、誇らず、驕おご
らず、非礼を行わず、自分の利を求めず、憤らず、慢心しない」 ことだと言うことが出来る。アメリカの動物学者ディーン教授が、人間性の六つの要素をあげた中で、礼こそ社交が生んだもっとも成熟した果実であるとして、高い地位を与えたことも不思議ではない。 私は、このように礼を称揚するが、決してこれを徳の第一位に置くものではない。これを分析すると、礼は、他の高い次元のコと相互関係にあることに気づくであろう。 ──
そもそも孤立して存在するコなどないのである。 礼は、武士特有の徳として賞讃され、その価値以上に高い尊敬が払われたのである (あるいはむしろ払われたがゆえに)
、その偽者が出るようになる。孔子も、見せかけの礼が礼でないのは、音が音楽でないのと同じであると、くり返し教えた。 礼が、社交に不可欠な要件にまで高められる時、若者に正しい社交的態度を教えるため、礼儀作法
etiquette の詳細な体系が流行するに至るのは当然であろう。他人に挨拶する時は、どのように頭を下げなければならないか、歩き方、座り方はどうでなければならないかが、細心の注意をもって教えられ、学ばれた。 食事の作法は、一つの学問にまで成長した。茶を点た
てて飲むことは、儀式になで高められた。もちろん、教養のある人は、当然これらすべてに精通していることが期待された。 アメリカの社会学者ヴェブレン氏が、その興味深い著書の中で、上品な礼を
「有閑階級の生活の産物であり、その特徴」 と叫んでいるのは、まさに適切であろう。 |