〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part W-V』 〜 〜
==武 士 道 ==
(著:新渡戸 稲造 訳:山本 博文)
 

2015/10/27 (火) 

敗 者 に 対 す る 仁 の 心

弱者、劣者、敗者に対する仁は、特にサムライにふさわしいものとして、いつも賞讃された。
日本美術の愛好家であれば、一人の僧が後ろ向きに牛の背に乗っている絵を知っているだろう。この僧は、かつてはその名前が恐るべきものの代名詞となっていたほどの荒武者であった。
須磨の浦の激戦 (一一八四年) われわれの歴史上、もっとも重要な合戦の一つだったが、その時彼 (熊谷直実) は一人の敵を追いかけ、たくましい腕に組み伏せた。このような場合、組み敷かれた側が組み伏せた側と同等の身分の者であるか、あるいは同等程度の力量がある者なければ、一滴の血を流すことも許さないのが戦いの作法だった。
そこで、この荒武者は、組み敷いた者の名を知ろうとした。しかし、彼が名乗りを拒むので、かぶと を乱暴に取ると、まだ髭もひげ 生えていない美しい若者の顔が現れた。武士は驚いて、その手をゆるめた。若者を助け起しながら、父のような声で、「おお、若い貴公子よ。母のもとへ落ちよ。熊谷の刀は、あなたの血を染めさせるものではない。敵に見咎みとが められないうちに、はやく逃げ延びよ」 と諭した。
若者 (平敦盛) は、逃げるのを拒み、お互いの名誉のためにこの場で自分を殺してくれと頼んだ。歴戦の勇者が白き筋の交じった頭の上に振りかざした氷の刃、それはこれまで何度も人の命の弦を断ち切ったものだった。しかし、彼の猛々しい心もひるんだ。熊谷の心の目には、まさにこの日に初陣の刀を試そうとほら貝や陣鐘にあわせて勇んで進む、わが子の姿が映った。彼の強い腕は震えた。
彼は再び落ち延びるよう頼んだ。しかし、若武者はそれを聞こうとしない。味方の兵の近づく足音を聞いて、熊谷は、 「こうなってはもう逃がしはしませぬ。名もない兵の手に掛って死ぬよりも、同じことなら私に手に掛けましょう。おお神仏よ! 彼の魂を受け取りたまえ」 と叫んだ。その一瞬、剣が空にきらめき、振り下ろされた時、それは若武者の血で真っ赤に染まった。
いくさ が終わり、熊谷は凱旋がいせん したが、彼はもはや名誉も声望を思わず、武士としての人生を捨て、頭を り、僧衣をまとって、残りの生涯を聖なる巡礼の旅にささげた。── そこから救いが訪れるという浄土のある、太陽が毎日沈んでいく西の方角へは決して背を向けないで。
批評家は、この物語のさまざまな欠点を指摘するだろう。いちいち細かくあげれば、いくらでも難癖をつけることができる。したければさせておこう。それでもやはりこの物語は、優しさ、憐れみ、愛が背後にあることによって、サムライのもっとも残忍な 「手柄」 でさえ美しいものでありえたことを示している。
「窮鳥が懐へ入る時は、猟師もこれを殺さない」 という古い格言がある。このことは、とりわけキリスト教的と考えられている赤十字運動が、あれほど容易にわが国民の間に確かな足場を築いた理由を説明するものだろう。私たちは、ジュネーヴ条約を耳にするより数十年も前に、わが国のこっとも偉大な小説家馬琴の著作によって、倒れた敵に医療を施す物語に親しんでいたのである。
武勇の精神と教育で知られた薩摩藩では、青年が音楽をたしなむ習慣が広くあった。それは 「あの血と死のやかましい前兆」 であるラッパを吹き、太鼓を打ち鳴らして、虎の振る舞いをまねるよう駆り立てるのではない。もの悲しく優しいメロディーを琵琶にのせて私たちの燃えたぎる心をやわらげ、私たちの思いを血の臭いや殺戮の情景から引き離したのである。
ギリシャの歴史家プリュビオスが語ることろによると、アルカディアの憲法では、三十歳以下の若者は、みな音楽をたしなむことが求められた。それは、この優しい芸術によって、その地域の苛酷な風土から来る粗野な性格を緩和するためだという。アルカディア山脈のこの地方に残忍な気性が見られない理由を、彼はまさに音楽の影響によるものとしている。

『武 士 道』 著:新渡戸 稲造 訳:山本 博文 ヨリ
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