日本において、武士階級の間に風雅の心が養われたのは、何も薩摩藩だけのことではなかった。白河の藩主
(松平定信) は、心に浮かぶさまざまなことを書き留めているが、その中に次の文章がある。── 「花の香り、遠い寺の鐘、霜の夜に鳴く虫の音、──
これらは、真夜中の静けさの中でそなたの寝床の側にこっそりとやって来ても追い払うな。」 また、言う。 「花を散らす風、月を隠す雲、あなたに喧嘩を売ろうとする人
── そなたの感情を害するとしても、この三つは許さなければならぬ。」 このような風雅な感情を言葉で表現するため、いやむしろ心の中に養うため、和歌を詠むことが奨励された。私たちの詩歌には、その底流に哀感と優しさが強くある。ある田舎侍
(大高源吾) に有名な逸話は、この好例である。 彼は俳諧を学ぶことを勧められ、最初の創作で 「鶯
の音」 という季題が与えられた。 彼は激しやすい心に妨げられ、師匠の足下に次のような駄作を提出した (カッコ内は新渡戸の英文訳)
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鶯の初音をきく耳は別にしておく武士もののふ
かな (鶯の歌を聴く耳は、別のところに置いている武士であることよ。) |
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彼の師匠は、この粗野な感性にもひるまず、彼を励ました。ある日、彼は、とうとう心の中の音楽的感性が目覚めて、鶯の良い声に応じて次ぎのように詠んだ。 |
武夫もののふ
の鶯きいて立ちにけり (武士は鎧を着て雄々しく立った。木々の間で美しくさえずる鶯の歌を聞きながら。) |
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ドイツの詩人ケルナーは、戦場で傷ついて倒れた際、有名な
「生命への告別」 の詩を読んだ。彼の短い生涯におけるこの英雄的な行為を、私たちは賞讃し、楽しむ。 同じような出来事は、わが国の合戦において、決して珍しくはなかった。我われの簡潔で警句的な詩形は、とっさの感情を即興的にうたうのに特に適している。およそ教育のある者は、みな和歌や俳諧をたしなんだ。戦場に赴く武士が、馬を止め、腰の矢立を取り出して歌を詠む、
── そしてそのような歌を書いた短冊が、亡骸なきがら
となったその武士の兜や鎧から取り出されることがあった。 ヨーロッパでは、キリスト教が、戦場の恐怖のさなかにあっても哀れみの情を喚起する役割を果たしたがm日本においては、音楽や文学のたしなみが果たしたのである。優しさの感情を養うことで、他人の痛み対する思いやりの気持が育つ。他人の感情を尊重することから生まれてくる謙虚や丁重の心は、礼の根っこにある。 |