〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part W-V』 〜 〜
==武 士 道 ==
(著:新渡戸 稲造 訳:山本 博文)
 

2015/10/24 (土) 

「義 理」 の 本 来 の 意 味

封建時代の末期には、長い平和な時代が続いたため、武士階級の生活に余暇が生じた。
それに伴い、あらゆる種類の遊興や芸術的なたしなみが生まれたが、その時でさえ、 「義士」 という称号は、学問や芸術の熟達を意味するどのような称号よりも優れたものと考えられた。わが国の大衆教育で、しばしば素材として利用されている四十七人の忠臣は、俗に 「四十七義士」 として知られている。
ずるい策略が戦術として通用し、露骨な偽りが戦略として通用していた時代にあって、率直で正直な、この男らしい徳は、最上の光り輝く宝石であり、最大級の賛辞を受けたのだった。
義は、もう一つの武徳である勇気と双子の兄弟である。しかし、さらに勇気のことを話す前に、しばらくの間、義から派生して成立した言葉について述べてみたい。
この言葉は、そもそもの原型では義からほんの少しずれたにすぎないものだったが、その後ますます義から離れてしまい、ついには世間の受け止めるところでは、まったく逆の意味になっている。それは、 「義理」 と呼ばれる言葉である。文字通りの意味では、 「正しい道理 right reason」 というものだったが、やがて世間がなすことを期待している、あいまいな義務感を意味するようになった。
その元来の純粋な意味では、義理は単純明快な義務を指していた。── そにため、私たちは、両親、目上の人たち、目下の人たち、または社会全体に対して、義理を負うと言うのである。
これらの場合、義理は義務のことである。なぜなら、義務とは、 「正しい道理」 によって私たちがなすべきことを要求され、かつ命じられるもの以外の何ものでもないからである。 「正しい道理」 は、私たちにとって無条件に従うべき命令ではないだろうか。

『武 士 道』 著:新渡戸 稲造 訳:山本 博文 ヨリ
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