義理のもともとの意味は、義務
duty にほかならない。そして、義理という言葉が出来たわけは、次の事実から説明できるだろう。 私たちの行為、たとえば親への孝は愛情が唯一の動機であるべきだが、もし愛情に欠けていれば、孝を命ずるために何かほかの権威がなくてはならない。そこで私たちは、その権威を義理に求めたのである。 義理の権威を形づくったことは、まってくもって正しいことだった。なぜなら、もし愛情が美徳を行わせるほど強くは働かない時には、人間に知性に頼るほかはない。正しく行動する必要があることを、理性によってすばやく知らせなければならないのである。 同じことは、ほかの道徳的な義務にも言える。義務がわずらわしくなると、すぐに
「正しい道理」 が機能して義務を行わせるようにする。義理をこのように理解すれば、それは厳しい監督者であり、鞭を手にして怠け者に役割を果たさせる存在である。 それは、道徳においては二次的な力である。動機としては、キリスト教の愛の教え
── 愛はまさに律法とされる ── にいちじるしく劣る。 義理は、人間社会の諸条件から生まれたものだと思う。 ── その社会にあっては、たまたまの生まれや功なくして得た恩寵が階級格差を作り出す。その社会的単位は家族であり、年長であることが能力以上に貴ばれ、自然の情愛はしばしば人工の恣意的な慣行に屈せねばならなかった。 この人為性のために、義理は時を経るごとに堕落し、あれこれのことを説明したり、是認したりする時に呼び出される漠然とした判断基準となった。
── たとえば、なぜ母親は、長男を助けるためにほかの子供をみな犠牲にしなければならないのか、または、なぜ娘は、父親の遊興費を得るために身を売らなければならないのか、ということが義理の観点から説明されたのである。 私の考えでは、義理は
「正しい道理」 として出発したが、しばしば詭弁のために用いられた。それは、非難を恐れる臆病にまで堕落してしまった。イギリスの詩人スコットは、愛国心について、
「それは、もっとも美しく、それゆえにしばしば疑わしいものであって、他の感情の仮面ともなる」 と書いている。義理についても同じことが言える。 義理は、
「正しい道理」 から離れてしまって、恐ろしい誤用を生んでいる。義理は、その翼の下に、あらゆる種類の詭弁と偽善を宿すことになった。もし正しい勇気の感覚、損なことでもあえて行い、あるいは耐え忍ぶ精神が武士道になかったならば、義理はたやすく臆病者の巣になったことだろう。 |