〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part W-V』 〜 〜
==武 士 道 ==
(著:新渡戸 稲造 訳:山本 博文)
 

2015/10/24 (土) 

義 の 概 念

義 rectitude は、サムライの掟の中で、もっとも厳しい教えである。
サムライにとって、卑怯な行動や不正な行為ほど恥ずべきものはない。そうした心性が義だが、この概念は誤解されやすい ── 義は狭い概念である。
ある著名な武士 [林子平] は、それを決断力と定義した。
「義は、自分の身の処し方を、道理に従い、ためらわず決断する心を言う ── 死すべき時に死に、討つべき時に討つことである。」
また別の武士 [真木和泉] は、義を次ぎのように述べている。
「義は、たとえて言うと、人の身体に骨があるようなものである。骨がなければ首も正しく据わることが出来ない。手も動かないし、足も立つことが出来ない。だから、人は才能があっても、学問があっても、義がなければ世の中に立つことが出来ない。義があれば、無骨で不調法であっても、武士たる資格がある。」
孟子は、仁を人の心と言い、義を人の路だと言った。 「何と悲しいことか」 と彼は嘆く。── 「その路を捨ててそれに従うことをしない。その心を失って再び求めることを知らない。悲しいことだ。人は、鶏や犬がどこかへ行けば探すことを知っているが、心を失っているのに探そうともしない。」
孟子から三百年後に別の国で、一人の偉大な教師 [イエス・キリスト] が、みずからのことをたとえて、 「失ったものを見出すことが出来る唯一の義の道である」 と叫んだが、その類似を 「鏡の中に見るようにおぼろに」 認めることが出来るのではないだろうか。
しかし、私は論点から脱線したようだ。孟子によれば、義は、人が失われた楽園を取り戻すために歩むべき、真っ直ぐでかつ狭い道だということである。

『武 士 道』 著:新渡戸 稲造 訳:山本 博文 ヨリ
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