この問題を論ずるにあたり、しばらくわき道にそれることを許してほしい。それは、もっとも高潔な武士の中には、この聖賢の教えに強い影響を受けた者が少なくないからである。 ヨーロッパの読者は、王陽明の著作の中に、新約聖書と似た点が多いことに気づくであろう。特殊な用語上の違いさえ認めれば、
「まず神の王国と神の正義を求めなさい。そうすればすべてこれらの物は汝らに与えられるであろう」 という言葉は、王陽明のどのページにも見出される思想である。 陽明学派のある日本人
[三輪執斎] は、次ぎのように言う。 「天地の生み出すものは、人に宿って心となる。それゆえ心は活きたものであって、いつも輝いている」 と。そしてまた、 「その本体の霊明は、常に輝き続けている。それは人の心がなすものではなく、自然から発してその善悪を照らす。これを良知という。それはかの天の神の光明である」
とも言う。 これらの言葉は、イギリスの医者アイザック・ペニントンや他の神秘的哲学者らの文章と、本当によく似た響きを持つ。神道の単純な教義に示されるような日本人の素直な心は、陽明の教えを受け入れるのに、特に適していたと思われる。 彼は、その良心無謬説を、極端な超自然主義にまでおし進め、善悪の区別だけでなく、心理的事実や、物理的現象の性質を認識する能力さえ、良心のなせるわざとしている。彼は、観念論に徹することにおいて、イギリスの哲学者バークレイやドイツの哲学者フィヒテに劣らず、人間の認識の外には事物は存在しないとまで考えた。 彼の学説は、唯我論に投げかけられるあらゆる論理的誤りを免れえないとしても、強い確信に基づく力を持っており、それによって個性的な性格と冷静沈着な気質を発達させた道徳的意義は、否定できない。
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