真之はそのあと三キロの道を歩き、田端
の大竜寺まで行っている。 田端まで行くと、坂がきつくなる。のぼりきって台地に出ると、あたりに人家は少なく、はるか北に荒川の川岸が望まれ、上り下りする白帆が空と水に浮かんでまるで広重の絵を見るようであった。 このあたりはケヤキやカヤの老樹が多く、とくに大竜寺の墓地の背後には鬱然としている。
「あし・・ が死ねばあの寺に埋めてくれ」
と子規みずからがその菩提寺を選んだこの寺は、本堂がひどく田舎びて十間四方の大きな茅かや
ぶきであった。 墓地は本堂に向かって左横にある。子規の墓はその奥にあった。 「子規居士之墓」 とみかげ石にきざまれた石碑があり、そのあたりの楓かえで
がみごとに色づいていた。 真之がこの墓前に立った時、まだ真鍮板しんちゅうばんにきざんだ墓誌の碑は出来ていなかったが、その草稿だけは出来ていた。子規自身が生前に書いたものであり、子規の死後、真之もそれを見たことがある。 その死者自作の墓誌は真之の文章感覚からすれば一種不思議な文章のように思われたが、しかし子規が主唱しつづけた写生文の極致といったようなものであった。子規居士とは何者ぞということが数行で書かれている。 「正岡常規つねのり
又ノ名ハ処之助ところのすけ又ノ名ハ升のぼる
又ノ名ハ子規又ノ名ハ獺祭だつさい
書屋主人又ノ名ハ竹ノ里人さとびと
伊予松山ニ生レ東京根岸ニ住ス父隼太はやた
松山藩御馬廻おうままわり加番かばん
タリ卒ス母大原氏ニ養ハル日本新聞社員タリ明治三十□年□月□日没ス享年三十□年月給四十円」 真之はこの墓誌を暗誦あんしょう
していた。ここには子規がその短い生涯を費やした俳句、短歌のことなどは一字も触れられておらず、ただ自分の名を書き、生国を書き、父の藩名とお役目を書き、母に養われたことを書き、勤め先を書き、さらに月給の額を書いて締めくくっている。 子規は自分の墓誌を病床で書いた。書き終わったあと、友人の河東銓かわひがしせん
にそれを送り、これについて以下の手紙を同封している。 「アシヤ自分ガ死ンデモ石碑ナドハイラン主義デ、石碑立テテモ字ナンカ彫ラン主義デ、字ハ彫ッテモ長タラシイコトナド書クノハ大嫌ヒデ、寧ロコンナ石コロヲコロガシテ置キタイノヂヤケレドモ、万一已や
ムヲ得ンコトニテ 彫ルナラ別紙ノ如キ者デ尽シトルト思フテ書イテ見タ、コレヨリ上一字増シテモ余計ヂヤ」 と、子規はその意図を述べている。この墓碑の文体は子規の写生文の模範というより、子規という人間が、江戸末期に完成した武士的教養人の最後のひとりであったことをよくあらわしている。 石碑が濡れはじめ、真之は墓前を去った。 雨になった。庫裡くり
で古笠ふるがさ と古蓑ふるみの
を借り、供養料を置いて路上へ出た。 道は、飛鳥山あすかやま、河越かわごえ
へ通ずる旧街道である。雨の中で緑がはるかに煙り、真之はふと三笠の艦橋からのぞんだあの日の日本海の海原うなばら
を思い出した。 |