〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part W-U』 〜 〜
── 坂 の 上 の 雲 ──
(八)
 

2015/10/01 (木) 

雨 の 坂 (十七)

秋山真之の生涯も、必ずしも長くはなかった。大正七 (一九四八) 年二月四日、満四十九歳で没した。
日露戦争のあとの彼は海軍内部における穏当な官僚ではなかった。一見、突拍子とっぴょうしもない言動がしばしば人を面食らわせ、一部では一人格に天才と狂人が同居しているのではないかと言われたりした。
── 君は頭脳を休める工夫をせよ。
と、真之がかつて仕えた上司の参謀長だった島村速雄がしばしば忠告したが、島村のいう 「扇風機のような」 頭脳は日本海における作戦の任務が終わってからも他に目的を求めて旋回し、人類や国家の本質を考えたり、生死についての宗教的命題を考えつづけたりした。すべて官僚には不必要なことばかりであった。
ただ第一次世界大戦が起こったとき、彼は公務でパリへ行き、この大戦の進行と結末についての予想をたて、ことごとく的中させたことぐらいが真之らしい挿話というべきものであった。真之は大正六年中将に昇進したが、すでに健康をそこなっていたためそのまま待命になり、その三ヵ月後に死んだ。彼はたまたま小田原の知人の別荘に泊めてもらっているとき慢性腹膜炎が悪化し、二月四日未明、吐血して臨終をむかえた。
臨終の時枕頭ちんとう に集まっていた人びとに、
「みなさんいろいろお世話になりました。これからひと りで行きますから」
と言った。それが最期の言葉だった。兄の好古は検閲のため福島県白河に出張中で、小田原に集まっている人びとに 「ヨロシクタノム」 という電報を打っただけであった。
好古はやや長命した。
彼は大正五年に陸軍大将になり、同十二年に予備役に入った。その翌年故郷の北予中学校の校長になり昭和五 (一九三〇) 年、満七十一歳で病没する年までその職をつづけ、やがて死の年の四月に辞任して東京へ帰った。老後を養うつもりであったが、ほどなく発病した。
病名は糖尿病と脱疽だっそ である。左足の痛みがはなはだしく、当人は最初は神経痛だろうと思っていた。入院前、赤坂丹後町の借家に訪ねて来た松山の幼友達に、
「もうあし・・ はすることはした。 ってもええのじゃ」
と言ったりした。
やがて牛込戸山町の陸軍軍医学校に入院し、はじめて酒のない生活に入った。医師たちは左脚を切断することにずいぶんためらったが、結果はその手術をおこなった。しかし菌は切断部よりも上部に侵入していた。手術後四日間ほとんど昏睡こんすい していたが、同郷の軍人で白川義則よしのり が見舞いに来た時、好古の意識は四十度近い高熱のなかにただよっていた。
彼は数日うわごとを言いつづけた。すべて日露戦争当時のことばかりであり、彼の魂魄こんぱく は彼を苦しめた満州の戦野をさまよいつづけているようであった。臨終近くなったとき、 「鉄嶺てつれい 」 という地名がしきりに出た。やがて、
「奉天へ。──」
と、うめくように叫び、昭和五年十一月四日午後七時十分に没した。                  

(坂の上の雲 おわり)
『坂の上の雲』 著:司馬遼太郎 ヨリ