一つの情景がある。 連合艦隊が横浜沖で凱旋の観艦式を行ったのは、十月二十三日である。その翌々日、真之は暗いうちに家を出た。 途中、根岸の芋坂
と呼ばれているあたりの茶店でひとやすみした。この朝、 ── 根岸へ行く。 と言い残して家を出たのは、子規の家にその母と妹を訪ねるつもりだったのだが、朝食をとって来なかったためにこの茶店に立ち寄ったのである。真之は粗末な和服に小倉の袴はかま
をはき、鳥打帽をかぶっている。一見、神田あたりの夜間塾の教師のようであった。 「めしがあるかな」 と、茶店に入るなり、松山なまりで少女に言ったために、返事もしてもらえなかった。 この茶店は
「藤の木茶屋」 と呼ばれて江戸のころからの老舗しにせ
なのである。団子を売る茶屋で、めしは売らなかった。その団子のきめの細かさから羽二重団子と呼ばれて往還を通る人びとから親しまれている。 「団子ならありますよ」 と、少女が言った。真之はやむなく団子を一皿注文した。 「鶯うぐいす
丁すぐそこじゃな」 「半丁ほどむこうです」 「正岡子規という人の家があるが、知っておいでか」 と聞いたが、少女は指揮の名も知らなかった。真之は黙って団子を食った。 鶯うぐいす
横丁というのは弓なりにまがっている。板塀がつづき、そのむこうに楢なら
や欅けやき の大木が風の中で梢こずえ
をさわがしている。横丁の道幅は一間ほどで、相変らずこの界隈かいわい
は排水が悪く、黒っぽい道が気味悪いほど湿っていた。 子規の家の前まで来ると、真之の身動きが急ににぶった。この一間幅の道からすぐ玄関の格子戸こうしど
が見える。家の中に人の気配がした。母親の八重か、妹の律か、どちらかであろう。子規の遺族というのはこの二人だけしかおらず、病床の子規をまもって子規の生前から三人が寄り添うようにして暮して来た。そのそのひとりが欠けた。 頭上で、梢の鳴る音がした。真之はよほど長い間路傍で立っていたが、やがて歩きはじめ、しだいに早足になった。 律は家の前に人影が立っていることに気づいていた。薄気味悪く思い、母親の八重に告げた。八重が路上に出てみると、真之のうしろ姿だけが見えた。 「あれは淳さん
(真之) みたようじゃったが」 と、八重は家の中にもどって、律に言った。律はおどろいてあとを追ったが、しかしもう姿がなかった。 「淳さんなら軍艦に乗っておいでじゃけん、人ちがいじゃろか」 と、格子戸の前で母親にささやいた。ところがあとでこの母娘は、子規の菩提寺ぼだいじ
の大竜寺から来た役僧の話で、目のするどい柔術教師のような壮漢が寺に供養料を置いて行ったことを知った。 ── いいえ、あれは海軍士官じゃなかったですよ。 と、役僧が断定したのは、その人物が軍服を着ていなかったというだけの理由によるものらしい。
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