〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part W-U』 〜 〜
── 坂 の 上 の 雲 ──
(八)
 

2015/09/30 (水) 

雨 の 坂 (十四)

社会主義についての好古の理解の度合がどの程度のものであったかはおyくわからない。
ただ、こういう話がある。
好古は乃木希典との縁が浅くなかったが、その最初の出会いはパリにおいてであった。
乃木は陸軍少将の時に外遊した。ときに三十九歳で、明治二十年のことである。パリへ行き、フランス陸軍省を訪ねたとき、ちょうど留学中だった好古が通訳した。
その時新聞記者が訪ねて来て乃木に会見を申し入れた。乃木は承諾し、好古が通訳した。
そも記者の質問が、
「社会主義をどう思うか」
であったのである。乃木は社会主義についてさほどの知識はなかった。好古は乃木のために社会主義について簡単な開設をした。
その解説が、
「平等を愛する主義です」
という簡単なものだった。身分も平等、収入も平等の世の中にするということです、と言うと乃木は大きくうなずき、
「しかし日本の武士道のほうがすぐれている」
と、多少質問の趣旨と食い違っているとはいえ、ひどく断定的な調子で言ったため、記者のほうが圧倒された様子だった。
乃木は、言う。
「武士道というのは身を殺して仁をなすものである。社会主義は平等を愛するというが、武士道は自分を犠牲にして人を助けるものであるから、社会主義より一段上である」
乃木という人物は、すでに日本でも亡びようとしている武士道の最後の信奉者であった。この武士道的教養主義者は、近代国家の将軍として必要な軍事知識や国際的な情報感覚に乏しかったが、江戸期が三百年かかって作りあげた倫理を蒸留じょうりゅう してその純粋成分でもって自分を教育しあげようとした人物で、そういう人物が持つ人格的迫力のようなものが、その記者を圧倒してしまったらしい。
好古は乃木がきらいではなかった。しかし乃木の旅順要塞に対する攻撃の仕方には無言の批判をもっていたようであり、たとえば、
「日本の非力な騎兵が、数倍のミシチェンコ騎兵団をなんとか追い払って行くことが出来たのはおれの功績ではない。日本の騎兵が最初から機関銃を装備していたのに対して向こうが持っていなかったからである。精神力を強調するのあまり火力を無視するという傾向はどうも せない」
とよく言っていたのは、あるいは一種の乃木批判になるかも知れない。
乃木は身を犠牲にすると言いつつも、台湾総督をつとめたり、晩年は伯爵になり、学習院長になったりして、貴族の子弟を教育した。
しかし好古は爵位ももらわず、しかも陸軍大将で退役してあとは自分の故郷の松山にもどり、私立の北予中学という無名の中学校の校長をつとめた。黙々と六年間つとめ、東京の中学校長会議のも欠かさず出席したりした。従二位勲一等功二級陸軍大将というような極官にのぼった人間が田舎の私立中学の校長をつとめるというのは当時としては考えられぬことであった。第一、家屋敷ですら東京の家も小さな借家であったし松山の家は彼の生家の徒士かち 屋敷のままで、終生福沢諭吉を尊敬し、その平等思想が好きであった。好古が死んだ時、その知己たちが、
「最後の武士が死んだ」
と言ったが、パリで武士道を唱えた乃木よりもあるいは好古の方がごく自然な武士らしさをもった男だったかも知れない。

『坂の上の雲』 著:司馬遼太郎 ヨリ
Next