〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part W-U』 〜 〜
── 坂 の 上 の 雲 ──
(八)
 

2015/09/29 (火) 

雨 の 坂 (十三)

話は、好古の帰還以前に戻る。
好古が秋山騎兵団の軍隊区分を解き、出征以来直率してきた騎兵第一旅団のみを率いて戦場を去り、十月二十三日以後、東?山子という村で凱旋輸送の順序を待ったいたころのことである。
身辺には参謀も去り、副官だけが残った。
「清岡よ」
と、ある夜、副官に言った。
「ロシアは社会主義になるだろう」
と予言めかしいことを言った。
どういうわけです、と清岡が聞くと、
「理由など、わかるものか。かん・・ じゃ」
と、好古はシナ酒を飲みながら言った。
ただ清岡には社会主義というものがよく分からず、率直にその解説を好古にもとめた。
ところが清岡にとって多少意外なことだったが、無口で武骨だと思っていた好古がその方面の知識を持っていたことである。
「なあに、耳学問だよ」
と、好古は言った。清岡はいよいよ驚き、閣下は社会主義者とおつきあいがあるのですか、と聞くと、ああフランスで知り合ったよ、と好古は答えた。
好古が若いころフランスに留学していた時、しばしば酒場へ行った。彼のゆきつけの酒場は社会主義者の集まる所で、ある日、袖を引かれた。
袖を引いた男が、社会主義者だった、彼は好古に向かって社会主義がいかに正義であるかを説いた。やがて親しくなると、地下室に案内された。そこでその方面のいろんな連中と会った。
「決して悪いものじゃないよ。いい所もあるよ」
と好古はこの時清岡にも言ったが、彼の晩年共産党の問題がやかましくなったとき 「悪意をもって共産党の問題を考えるようでは何の得るところもない」 と言ったりした。
ロシアが社会主義国家になるだろうという好古のかん・・ は、ロシアがその栄光とする陸軍が日本のような小国に敗れたからだという。
「ロシア陸軍は、国民の軍隊ではないからな」
とだけ言った。ロシアのその世界最大の陸軍は皇帝ツアリー の私有物であるにすぎない、ということであろう。その軍隊が外国に負けたとき人民の誇りは少しも傷つかず、皇帝のみが傷つく。皇帝の権威が失墜し、それによって革命が起こるかもしれない、ということであるらしかった。日本の軍隊はロシアと違い、国軍であると、好古はよく言った。好古は生涯天皇について多くを語らなかったが、昭和初期において濃厚なかたちで成立する 「天皇の軍隊」 という憲法上の思想は好古の時代には単に修辞的なもので、多分に国民の軍隊とう考え方のほうが濃かった。
「ナポレオンはフランス史上最初の国軍を率いたから強かったのだ」
と好古はよく言ったが、日露戦争における両軍の強弱の差もそこから出ている、と好古は考えていたらしい。好古にすれば日本軍は国民軍であった。ロシアのように皇帝の極東に対する私的野望のために戦ったのではなく、日本側は祖国防衛戦争のために国民が国家の危機を自覚して銃をとったために寡兵をもって大軍を押しかえすことが出来たのだ、という意味であるようであった。

『坂の上の雲』 著:司馬遼太郎 ヨリ
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