余談ながら明治期に入っての文章日本語は、日本そのものの国家と社会が一変しただけでなく、外来思想の導入にともなってはなはだしく混乱した。 その混乱が明治三十年代に入っていくらかの型に整備されてゆくについては規範となるべき天才的な文章を必要とした。漱石も子規もその規範になった人びとだが、彼らは表現力のある文章語を創
るためにはほとんで独創的な (江戸期に類例を求めにくいという意味で) 作業をした。 真之の文章も、この時期でのそういう規範の役目をしたというべきであったろう。彼は報告文においてもさかんに造語した。せざるを得なかったのは文章日本語が共通のものとして確立されていなかったことにもよる。その言いまわしも彼自身が工夫せざるを得なかった。そういう意味で、彼の文章がもっとも光彩を放ったのは
「連合艦隊解散ノ辞」 である。 戦時編制である 「連合艦隊」 が解散をしたのは十二月二十日で、その解散式は翌日旗艦において行われた。旗艦はこの時期、敷島から朝日になっていた。朝日のまわりには汽艇が密集し、各司令長官、司令官、艦長、司令などが次々に来艦して来た。 やがて解散式が始まり、東郷は、 「告別の辞」 と、低い声で言い、有名な
「連合艦隊解散ノ辞」 を読み始めたのである。 長文であるため引用をひかえるが、この文章の中でのちのちまで日本の軍人思想に影響したものをあげると、 「・・・・百発百中の一砲、能よ
く百発一中の敵砲百門に対抗し得るを覚さと
らば、我等軍人は主として武力を形而上けいじじょうに求めざるべからず。・・・・・惟おも
ふに武人の一生は連綿不断の戦争にして、時の平戦に由り其そ
の債務に軽重あるの理なし、事有れば武力を発揮し、事無ければこれを修養し、終始一貫その本分を尽さんのみ、過去の一年有半、かの風濤ふうとう
と戦ひ、寒暑に抗し、屡しばしば
頑敵と対して生死の間に出入せしこと、もとより容易の業わざ
ならざりしも、観ずればこれまた長期の一大演習にして、これに参加し幾多啓発するを得たる武人の幸福、比するにものなし」 以下、東西の戦史の例をひき、最後は以下の一句でむすんでいる。 「神明はただ平素の鍛錬に力つと
め戦はずしてすでに勝てる者に勝利の栄冠を授くると同時に、一勝に満足して治平に安やすん
ずる者よりただちにこれをうばふ。古人曰いわ
く、勝つて兜の緒を締めよ、と」 この文章はさまざまの形式で各国語に翻訳されたが、とくに米国大統領セオドア・ルーズヴェルトはこれに感動し、全文を翻訳させて自国の陸海軍に配布した。真之の文章は以上の例でも分かるように漢文脈の格調を藉か
りつつ欧文脈の論理を出来るだけ取り入れているため翻訳に困難がともなうということはなかった。 |