満州における陸軍の状況は、海軍のばあいのように勝敗の色彩が明確ではなかった。 すでに連合艦隊が佐世保に憩
い、一方ポーツマスにあっては講和会議が進行中というのに満州の前線では彼我ひが
の騎兵斥候の衝突が絶え間なく、数騎同士の戦闘では馬格のの劣勢な日本騎兵のぶ・
が少なかった。好古が放った小規模の斥候で帰って来ない例が多かった。全滅した例もあれば、逃げ切れず捕虜になっている例も少なくない。捕虜の例は戦いが終末近づくにつれて多くなった。 「どうも敵にわが方の配置が知られているらしい」 と、好古はしばしばこぼした。好古は自分ひとりで作戦計画をたて、部隊を指揮した。参謀がいなかった。戦いの末期になってはじめて総司令部が二人の参謀をつけてくれたが、それでも好古は毎夜遅くまで蝋燭ろうそく
で地図を照らしてみずから戦いの設計を考えた。 そういうとき、彼が右のようなことをひとりごちた。それを当番兵が耳にしたりした。 騎兵が捕虜になると困るのである。その兵科の性質上、兵卒でも味方の配置や状況に通じていることが多く、それを敵に喋しゃべ
ってしまうらしい。 維新後、日本の国軍にあっては捕虜というものは不名誉なものとされており、自然、捕虜になった場合の教育が施されていなかった。西洋の場合はよく戦って力尽きて捕虜になるというのはあながち不名誉でなく、そのために捕虜としての倫理も確立していた。 敵に味方の状況を喋るなどということがよくないということをたれでも知っていたが、
「日本軍に捕虜はありえない」 ということを建前としている日本軍にあっては、いったん捕虜になった場合、敵の訊問じゅんもん
にすらすら答えしまう者が多い。好古はそのことに大いに迷惑し、 「やむを得ず捕虜になっても、敵の訊問に答える義務はないのだ。それをよく教えよ」 と、部下の各隊長に訓示を出している。その訓示の日付が九月二日であり、日本海海戦が終わって三ヶ月も経ったころである。 以下、彼の訓示文を意訳する。 「ちかごろわが騎兵団において生死不明者
(捕虜) が増加しているのは諸官のよく知っているところである。ここ一、二ヶ月の統計から見てもその数はじつに十数名にのぼっている。その大多数は状況真にやむを得なかったということもあるだろうが、日本固有の武士道において大いに欠けるところがないでもない。ちかごろわが軍の機密が比較的明瞭に敵に知られてしまっているようである。しかもこれはわが俘虜の自白によるものらしいというにいたっては驚かざるを得ない。各隊長はこのさいよく部下をいましめよ。万一不幸にして負傷の結果、精神に異状を呈し、真にやむを得ず俘虜になった者があったとしても、断じてわが状況を告白すべきではない。敵の訊問に答ふるの義務なきことを銘心せしむべし」 以上、最後の一行だけは好古の原文どおりである。真之が決戦と快勝についての名文を書いている時期に、兵員の質の低下しつつある満州の戦線にあって兄の好古はこういう文章を書かざるを得なかった。 |