真之は文章家とされた。 たしかに彼の文章は簡潔でしかも波濤
の中で砲火の閃々せんせん ときらめくような韻律性に富んでおり、さらにはあたらしい観念を短切に表現するための造語力も持っていた。 ただ彼は文士ではなく、その文章は公文書のかたちで発表されたものであったが、しかし同時代の文章日本語にすくなからぬ影響を与えた。 彼の書いた文章の特徴は、たとえば連合艦隊司令長官東郷平八郎が海軍軍令部長伊東裕亨へ送った戦闘詳報にもよくあらわれている。あれわれはこの文章によって日本海海戦の戦闘経過を的確に知ることが出来るが、その事実関係で組み上げられたぼう大な報告文の冒頭は一個の結論から始まっている。 「天佑ト神助ニ由よ
リ、我ガ連合艦隊ハ五月二十八日、敵ノ第二、第三聯合艦隊ト日本海ニ戦ヒテ、遂ニ殆ほとん
ト之ヲ撃滅スルコトヲ得タリ」 から始まり、以後、 「初メ敵艦隊ノ南洋ニ出現スルヤ、上命ニ基キ、当隊ハ予あらかじ
メ之ヲ近海ニ遊撃スルノ計画ヲ定メ、朝鮮海峡ニ全力ヲ集中シテ徐おもむろ
ニ敵ノ北上ヲ待チ・・・・・」 といきなり事実関係に入っている。 これをロジェストウェンスキーがその皇帝に上程した電報の報告文に比較すると、ロ提督のそれは単に経過を書き、結論もなく、しかも文章の多くは自分の運命について割かれており、自分が負傷したこと、知覚を失ったこと、自分が意識不明の間に、自分が収容されていた駆逐艦が日本側に降伏したことなどが書かれ、全般の戦況は不得要領にぼやかされ、勝敗についても触れられていない。報告文においてもロジェストウェンスキーは日本側よりはるかに劣っていた。 この艦隊が東京湾に凱旋したのは十月二十日である。大将旗が掲げられた旗艦敷島はこの日横浜港に入り、水煙をあげて錨いかり
を入れた。 その翌々日、東郷は参内さんだい
しなければならなかった。凱旋の奏上をするためであった。 凱旋の奏上は日清戦争の例では口頭であり今度もその先例に準よ
るはずと参謀長の加藤友三郎も思っていたところ、陸軍がすでに文章を作りあげていると知り、加藤はあわてた。東郷が上陸する前日のことである。 参謀清河大尉の記憶では、加藤があわただしく幕僚室に入って来た。このとき清河は真之と一緒に長唄の蓄音機を聴いており、真之はソファに寝ころがっていた。 「秋山さんはむくりと起きあがって」 と、清河の話にある。真之はすぐその場で筆をとり、しばらく筆を噛んで考えている様子だったが、あと一気呵成かせい
に書き上げた。それが、 「客歳二月上旬」 という文章からはじまる凱旋上奏文である。 「客歳二月上旬、聯合艦隊カ、大命ヲ奉シテ出征シタル以来、茲ニ一年有半・・・・・今日復ふたた
ヒ平和ノ秋とき ニ遇あ
ヒ、臣等、犬馬ノ労ヲ了お ヘテ大纛たいとう
(註・天皇旗) ノ下もと
ニ凱旋スルヲ得タリ。 (以下略) 」 |