真之は佐世保において、 ──
満州はどうか。 という、陸軍の戦況について知ろうとした。東京から来た大本営の作戦関係者の話でほぼあらましは分かった。 兄の好古は左翼の乃木軍に属し、北から南下して来るミシチェンコ騎兵団を押しかえし、大小の戦闘を交えつつかろうじて対峙
の形勢を保持していた。 キロパトキンと交代したロシア軍総司令官リネウィッチ大将は公主嶺の台地に総司令部を置き、 「雨期が終わらば日本軍を殲滅せんめつ
すべし」 と、豪語していた。 彼はシベリア鉄道によって送られて来る兵員、資材の補充が攻勢再興の能力を満たすにいたるのは満州にみじかい秋が訪れるころであろうとみていた。 それまでは陣地防御に専念していた。日本側もそれをすすんで覆滅する能力を持っておらず、作戦計画だけは公主嶺決戦とハルピン決戦を目標としてたてられているだけで、有能な下級将校の欠乏と砲弾の不足を補うにはあと一ヵ年以上を要するという悲惨な実情にあった。 要するに、戦線は日露双方の事情によって膠着こうちゃく
している。ただわずかにロシア側は得意のコサック騎兵団を放って日本軍の戦線をしきりに刺戟していた。好古の騎兵団はそれに対しいちいち対応せねばならなかった。 バルチック艦隊が五月二十七、八日の両日で全滅したにもかかわらzy、満州の最前線にいる好古は六月十五日豪雨を衝いて基地を出発し、一両日のあいだミシチェンコ将軍の騎兵団と激烈な戦闘を交え、かろうじてこれを撃退したが、しかし新占領地を保持するほどの兵力がなかったためそれを捨てて後方へ撤収した。ミシチェンコは再びその地へやって来て根拠地にするという押しつ押されつの戦況がつづいていた。 その戦場で好古は母親のお貞が病没したという知らせを受けた、真之は佐世保で知った。 ──淳、お前もお死に、あし・・
も死にます。 といって、幼いころの真之の腕白に手をやいて本気で短刀をつきつけたこの母親の死の報に接し、真之は佐世保の旅館の一室で終夜号泣した。兄の好古がこの報に接したのは花楊樹という村に駐屯ちゅうとん
していた時だったが、松山の友人の井手政雄にハガキを書き送っている。 「真之ガ働キシ故、号外ヲモチテ亡父ノ処ニ参リ候そうろう
ナラント存候。コノ端書ノ面白味ヲ知ルモノハ大人ノミニ候」 とある。好古は母のお貞が 「淳」 という真之の腕白に手を焼いていた事も知っていたし、終生真之をもっとも愛していたことも知っていた。
「あの腕白小僧をなんとか成人させたことは無駄ではなかったということを母は日本海の戦闘結果を知ってつくづく思ったことだろう」 という意味のことを、好古は 「面白味」
という言葉の裏に籠こ めているのである。 |