〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part W-U』 〜 〜
── 坂 の 上 の 雲 ──
(八)
 

2015/09/25 (金) 

雨 の 坂 (五)

ロジェストウェンスキーは、彼が演じたあれほどの長大な航海の目的地がこの佐世保海軍病院のベッドであったかのように静かに横たわっている。そのことが一種喜劇的ではあったが、元来、戦争とはそういうものであろう。戦争が遂行されるために消費されるぼう大な人力と盛名、さらにそれがために投下される巨大な資本のわりには、その結果が勝敗いずれであるにせよ、一種のむなしさがつきまとう。
「戦争というのは済んでしまえばつまらないものだ。軍人はそのつまらなさに堪えなければならない」
という意味のことを、日本の将軍の中でもっとも勇猛な一人とされる第一軍司令官黒木ためもと が、従軍武官の英国人ハミルトンに言ったというが、この場合のロジェストウェンスキーの役割はその最たるものであったかも知れない。そのことを、彼の病床に近づいた東郷がたれよりもよく知っていた。
東郷は、相手の役割のつまらなさに深刻な同情をもっており、相手の神経をなぐさめるためにのみ自分は存在していると思い、そのことを相手にわからせるために彼が身につけているほんのわずかな演技力でもって精一杯にふるまおうとした。
彼は白い夏衣を着ていた。病床の提督に手をのばして握手をし、そのあと、相手に威圧を与えないようにベッドのそばのイスに腰をおろし、ロジェストウェンスキーの顔をのぞきこむようにして言った。
東郷は無口で知られた男であったのに、この場合だけはひどく長い言葉をしゃべった。
東郷の言葉は、通訳の山本大尉が記憶しているところでは以下のようである。
「閣下」
と、東郷は低い声で語りかけた。
「はるばるロシアの遠いところから回航して来られましたのに、武運は閣下に利あらず、ご奮戦の甲斐なく、非常な重傷を負われました。今日ここでお会い申すことについて心からご同情つかまつります。われら武人はもとより祖国のために生命を賭けますが、私怨しえん などあるべきはずがありませぬ。ねがわくば十二分にご療養くだされ、一日も早くご全癒くださることを祈ります。なにかご希望のことがございましたらご遠慮なく申し出られよ、出来る限りのご便宜をはかります」
東郷の誠意が山本から通訳される前にロジェストウェンスキーに通じたらしく、彼は目に涙をにじませ、
「私は閣下のごとき人に敗れたことで、わずかにみずからを慰めます」
と、答えた。彼は戦闘状況をロシア皇帝に伝奏したいがその便宜をはかってもらえまいか、と東郷に頼んだ。東郷はそれを許可する権限は無かったがすぐさま承諾した。

『坂の上の雲』 著:司馬遼太郎 ヨリ
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