海は凪
いだ。 三笠とそれが率いる第一、第二戦隊は帰路についている。真之はときどき上甲板を散歩した。 海の凪が、彼には変に虚々そらぞら
しく見えた。 戦いの最中、天も動き海も荒れた。敵味方の砲弾が飛び交い、それが空気を切り裂き、瞬時々々に真空をつくることによって異様な音が天に交錯した。落下弾は海をたぎらせ、駈けまわる各艦が狂ったように閃光せんこう
を吐いた。 そのすべての状況が消え去ってみると、海の表情まで一変してうそのように凪ぎ、どの艦もゆるやかに航海している。濃灰色に塗られた艦体は被弾や火災によって少しは剥げていたが、しかしそれらの色体の群れは空と海によく映えていた。ただこれら濃灰色の群れが、黒ペンキで塗られた何隻かの軍艦を同行していることが多少開戦前と違っていた。黒い艦の群れは、ネボガトフの降伏艦隊であった。 五月三十日の太陽がやや傾くころ、東郷とその艦隊は佐世保に入港した。 (ベドーウィがいる) と、上甲板にいた真之が目ざとく発見した。ロジェストウェンスキー提督を乗せた駆逐艦ベドウィーが、一足さきに佐世保に入港していた。それを見たとき、真之の感情に異変がおこった。彼はほんの一、二分の間だが、涙が目にあふれ、激しく頬をつたって流れた。この感情の変調は、敵へのいたわりか勝利への安堵といったようなものではなさそうであった。後年の彼の言動から察して戦いそのものがもつ悲惨さに撃たれたということもあったであろう。さらに彼が後に信ずるようになった人為以上の意思をこの鉄の群れと水が構成する情景の中ではげしく感じたのかも知れない。 この日、午前中は晴れていたが、午後から雲が厚くなった。佐世保の地形は大小の島と岬と山が内懐うちぶところ
ろの深い小湾をつくっていて海湾としての自然が長崎をしのぐほどに美しい港であったが、この午後、凱旋がいせん
にふさわしくない曇天のために島々や岬の松林が黒っぽく、湾の水が鉛色で、真之の鬱情うつじょう
はいよいよ重いものになった。 小雨さえ降りはじめた。 三笠が入港した時、駆逐艦ベドーウィの負傷者はすべて陸上の佐世保海軍病院に移されていた。セミョーノフ中佐も雨を避けるために毛布を頭からかぶせられて担架に乗せられ、汽艇によって陸上へ移された。 が、艦長室で臥ふ
せているロジェストウェンスキーのみは頭部の重傷のため移動は見合わされていた。参謀長のコロン大佐はじめ幕僚一同も艦内にとどまっていた。彼らは、自分たちの手で一艦も沈めることが出来なかった東郷艦隊がぞくぞくと佐世保港に戻って来るの光景をベドーウィから見た。 |