〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part W-U』 〜 〜
── 坂 の 上 の 雲 ──
(八)
 

2015/09/25 (金) 

雨 の 坂 (二)

いったいこれを勝利と言うような規定のあいまいな言葉で表現できるだろうか。
相手が、消滅してしまったのである。極東の海上権を制覇せいは すべくロシア帝国の国力を挙げて押しよせて来た大艦隊が、二十七日の日本海の煙霧とともに蒸発したように消えた。
── とうてい信じられない。
という態度を、同盟国である英国の新聞でさえとった。バルチック艦隊は全滅し、東郷艦隊は水雷艇三隻沈没という報が達した時、これを冷静に記事にしたのは一紙だけで、他の新聞は誤報ではないか、という態度をとった。
「日本海軍は自己の損害を隠蔽いんぺい している」
と書いた新聞さえあった。
── 装甲艦が単なる砲戦によってそうたやすく沈むはずがない。
という疑問を提示した新聞もあった。むしろそれが専門家の常識であり、もし日本側の発表が真実であるなら彼らは潜航艇を使ったに違いないとも一部で論じられた。
もっとも装甲艦が演ずる近代戦の戦術についての著書のあるW・H・ウィルソンという英国の海軍研究家は、日露双方の発表によって事情が明快になったとき、
「なんと偉大な勝利であろう。自分は陸戦においても海戦においても歴史上このような完全な勝利というものを見たことがない」
と書き、さらに、
「この海戦は、白人優勢の時代がすでに終わったことについて歴史上の一新紀元を劃したというべきである。欧亜という相異なった人種の間に不平等が存在した時代は去った。将来は白色人種も黄色人種も同一の基盤に立たざるを得なくなるだろう」
とし、この海戦が世界史を変えたことを指摘している。
たしかにこの海戦がアジア人に自信を与えたことは事実であったが、しかしアジア人たちは即座には反応しなかった。中国人も朝鮮人も、また白人の支配下にあるフィリピン人もその他の東南アジアの民族たちも、この海戦の速報については鈍感であり、これによってアジア人であることの自信を即座に持ち、ただちに反応を示したというほどまでには民族的自覚が成長していなかった。
ただヨーロッパにおける一種のアジア的白人国 (マジャール人などを先祖とするハンガリー、フィンランドなど) は敏感に反応し、自国の勝利のようにこの勝利を誇った。さらにはロシア帝国のくびき・・・ のもとにあがいているポーランド人やトルコ人を喜ばせた。また元来日本びいきである南米のチリーやアルゼンチンの人びとを喜ばせ、この海戦から時を経た今日なお、アルゼンチンなどは同国の大使が東京に赴任するごとに横須賀の記念艦三笠を訪問することがなかば恒例のようになっているほどである。
撃沈されたロシア軍艦は戦艦が六隻、巡洋艦が四隻、海防艦が一隻、駆逐艦が四隻、仮装巡洋艦が一隻、特務艦が三隻で、捕獲されたものは戦艦二、海防艦二、駆逐艦一、抑留されたもの病院船二、脱走中に沈んだものが巡洋艦一、駆逐艦一で他の六隻 (巡洋艦三、駆逐艦一、特務艦二) はマニラ湾や上海などの中立国の港に逃げ込み、武装解除された。わずかに遁走とんそう し得たのはヨットを改造した小巡洋艦一と駆逐艦二、それに運送船一のみにすぎなかった。

『坂の上の雲』 著:司馬遼太郎 ヨリ
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