ネボガトフの旧艦隊の各艦については、捕獲の部署がさだめられた。そのことごとくを佐世保へ引っぱって行く。たとえば旗艦ニコライ一世と同アリョールについては第一戦隊が担当する。 海防艦アブラクシンと同セニャーウィンについては第二戦隊がこれを引き受けることになった。 ノビコフ・プリボイが乗っていた戦艦アリョールの乗員の多くは戦艦
「朝日」 に移された。 プリボイも朝日に移った。プリボイが朝日の上甲板に移ると、日本の水兵たちはニコニコしながら対応してくれたという。すぐ昼食が出た。全員にタバコ一袋が配られ、食事はコンビーフと白パンだった。復讐
されることを覚悟していたロシア兵たちはこういう待遇を受けることをたれ一人予想していなかったと言う。 プリボイは、戦艦朝日の艦内を見た。 「この日本の戦艦はあれほどわれわれの砲火を浴びながら少しも痛手を受けていなかった。艦内の掃除はきれいにゆきとどいていたし、いろんな器具類もきちんとしていて、申し分がなかった。・・・・われわれはいったいあれほどの砲弾をどこへぶっ放したのだろう」 と、プリボイは乗艦早々の印象を書いている。 プリボイたちの艦長のユング大佐は重傷を負って体を動かせなかったために、アリョールの中の小さな長方形の部屋の鉄製ベッドの上に横たわっていた。彼はほとんど意識がないにひとしかったから、自分の司令官が艦隊ぐるみ降伏してしまったことを知らなかった。彼の艦には軍医その他少数のロシア側の士卒が残っていたが、彼らもこの不幸な艦長に艦の運命を知らせなかった。 彼の部下の多くは朝日に移っているのだが、もし人一倍軍人としての誇りの強かったユング大佐がその事実を知ったならば狂死したかも知れない。もし狂死しないとすれば、ペテルブルグの劇場以外ではありうべからざる一つの奇遇に彼は茫然として言葉を失ったかもしれない。なぜならば戦艦朝日の艦長野元綱明大佐は、彼の親友だったからである。 野元はかつて駐露公使館の武官室に勤務したことがある。勤務上当然のことながらロシアの海軍省の連中と付き合い、招よ
んだり招ばれたりした。ユングの家はペテルブルグのスラヴィアンカにあった。野元はユングに招待されて何度もその家の客になっていたのである。しかしユングはあの野元が朝日の艦長になっていることは知らなかったし、野元のほうもユングがどの艦にいるかは知らなかった。しかし互いにその祖国のために同じ海域で砲火を交えなければならないということは知っていた。 野元がアリョールの艦長がユングであることを知ったのは、捕獲してからである。しかしその病室を訪問することは出来なかった。ユングには降伏というこの事情を知らせていなかったからであった。 アリョールだけは破損がはなはだしくてとうてい佐世保まで伴ってゆけないという状況だったので、舞鶴港へ向かうことになった。その途中、二十九日夜、ユングが死去した。その水葬式は三十日朝、アリョールで行われ、ロシア兵と日本兵が堵列とれつ
した。野元は朝日の艦尾に佇たたず
み、葬送のラッパの音が消えるまで立ち尽くした。 |