〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part W-U』 〜 〜
── 坂 の 上 の 雲 ──
(八)
 

2015/09/24 (木) 

ネ ボ ガ ト フ (十六)

礼服姿のネボガトフ少将とその幕僚たちが三笠の舷側の舷梯を登ってくる時の情景を、上甲板にいた砲術長の安保清種少佐が生涯忘れられぬ印象として記憶している。
「その悄然しょうぜん たる姿を見て、気の毒というか、涙のにじみ出るのを禁じ得なかった。さても戦いとは勝つか死ぬか二つのほかはないと思った」
この時三笠の艦上は物音ひとつせず、森の中のように静かだった。東郷はなお艦橋に立っていた。彼も安保清種と似たような感情の中にいたことは、以下のことでも想像できた。
この光景の中へ、第一艦隊所属の第二駆逐隊の四隻が割り込むようにして入って来たのである。司令駆逐艦はおぼろ で、いなずまいかずちあけぼの であった。それらの乗員たちが各艦のうえ甲板にむらがって、三笠の艦橋上の東郷に向かい、 「バンザイ、バンザイ」 と声をあげたのである。
東郷はひどく不愉快な表情になり、
「あっちへ行けと言え」
と、どなった。たれかが艦橋から 「沈黙せよ」 という意味の合図をすると、あわてたようにして四隻が三笠の横をすり抜けて後方へ去った。
そのあと東郷は長官公室でネボガトフたちと会見した。
通訳には、真之の先輩の中で彼ともっとも親しい一等巡洋艦浅間の艦長八代六郎大佐があたった。八代は明治二十八年から四年間ペテルブルグの駐露公使館付武官をしていてロシア語に堪能であった。
両提督は降伏と受降に関する形式上のことを終えたあと、一同にシャンペン・グラスが配られた。真之はこの場にいなかった。彼は敵の各艦に対し捕獲員の指図をしていたのである。
東郷はグラスをかかげ、
「海戦の集結を祝して」
と、日本語で言った。八代が大きな声でそれをロシア語で相手に伝えた。ネボガトフはグラスをかかげた。
一同、飲み干した
日本側の幕僚たちはロシア側の心情を察してことさらに表情を沈ませていたが、やがてその必要もないことが分かってきた。ネボガトフは日本風にいえば融通ゆうずう 無碍むげ の心境にあるらしく、ひどく明るい態度で東郷に話しかけた。このあたりで、真之が公室へ入って来た。以下、真之が後年メモしたところによる。
ネボガトフが、東郷に問う。
「閣下がなされた予測についてうかがいたい。どういう根拠でわれわれがツシマ海峡を通ると予知されたのか」
「予知したわけではない。推定したのである」
と、東郷。さらにネボガトフは、
「何に基づいて左様な推定をされたのか」
「地理天候その他の状況により、かくあらざるべからずと信じたるにすぎず」
パーティーは短時間に終わった。そのあとネボガトフたちは退艦し、すでに日本の軍艦になったかつての自分の旗艦に戻った。

『坂の上の雲』 著:司馬遼太郎 ヨリ
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