「じゅんさんが、軍艦をうけとりに行ったげな」 と、後日、東京で俳人河東碧梧桐へきとうごが、松山出身の連中との会合があったときその話題になった。 「秉公へいこう
」 と、子規がやや年下の碧梧桐をそのように呼んでいたように、真之も碧梧桐に対しては 「秉公」 だった。秉公の方は真之が幼名を淳五郎といったために 「秋山のじゅんさん」
と呼んでいた。 松山旧城下では士族町と町人町のこどもが互いに団体を組んで喧嘩をしあうという習慣があって、その餓鬼大将が真之だった。碧梧桐は年下だけに手下になって駈けまわっていた。 「大将が二人いてな」 と、碧梧桐は少年の頃の話をした。もう一人の大将というのは馬島某とう子供で、子供ながらも温厚寡黙でおのずから年下の悪童たちをなつかせていた。馬島某のその後の消息は碧梧桐も知らない。馬島と比べて
「秋山のじゅんさん」 のほうは、目が鋭く体中に気魄きはく
がみなぎっていて、 「じゅんさんが先頭に立って喧嘩をするときにはな、われわれ悪童どもは胸が一杯になってきて、天下に恐こわ
いものはないというような勇気やら安心やらが湧いたものでな」 と、言う。さらに碧梧桐は、 「われわれ悪童にとって馬島はやさしくて好きであり、じゅんさんはおそろしくて好きだった。人間というのは少年の頃の感じのままの大人というのはめったにいないが、じゅんさんはあのままひげ・・
がはえているだけじゃがな」 秋山家では兄の好古のほうが好きで、真之にはどこかきわどさを感じていたようである。 だが碧梧桐は彼の兄貴株であり師匠でもあった子規と真之がともに文学をやろうと誓い合った仲だったということに無限の懐かしみを感じていた。それが兄の好古にどなりつけられてやめたという話も、好んで人に披露した。 碧梧桐は、真之が電文や公報の起草者として名文家の盛名を世間で得たことを不満としていた。碧梧桐に言わせれば、 「舷々相摩す、などというじゅんさんの文章はあれは海図に朱線をひいてその赤インキの飛ばっちりじゃ」 と言う。真之が、碧梧桐の表現で言えば
「他の窺知きち することのできない惨澹たる経営でもって智嚢を傾けつくした」
バルチック艦隊の邀撃ようげき
作戦こそじゅんさんの真骨頂で、くだらない美文で名を得ているのは可哀そうじゃ、ということらしい。ひとつには子規を開祖としてひらかれた写生文の感覚からいえば、真之の文章というのは碧梧桐の気に入るたちのものではなかっや。 ともあれ、ネボガトフ艦隊は機関をとめて、漂泊した。東郷は、 「秋山サン、ゆきなさい」 と、受降のための軍使として真之を選んだ。旗艦ニコライ一世へ乗り込んでゆき、ネボガトフと対面して降伏についての打ち合わせをせよ、ということであった |