敵艦へ行くためには短艇
が必要だったが、たまたま三笠のそばに 「雉きじ
」 という名前のついたちっぽけな水雷艇が近づいて来たので、 「関よ」 と、真之は艦上からまねいた。雉の艦長は大尉で、関才右衛門といった。 真之は、それの乗った。彼は東郷のまゆをひそめさせた例のふんどし・・・・
姿 (剣帯を上衣の上から締めた恰好) をやめていた。武器は腰に吊っている果物ナイフのような短剣だけで、拳銃も持っていない。 (帰れるかどうかわからない) と思ったのは、随行の山本信次郎大尉である。山本は三笠の分隊長をつとめていたが、フランス語が堪能であるため、通訳として従ったのである。 ──
私は死を決していた。 と、山本信次郎がのちに語っている。以下、その談話である。 「秋山参謀と二人、水雷艇の “雉” に乗って本艦を離れ、敵の旗艦へ行った。その日は波が荒かった。その上、
“ニコライ一世” という軍艦は舷側の斜角が急なので上にあがれない」 木の葉のような水雷艇の上から仰ぐと、舷側がそそり立って大要塞を見るような感じがした。 そのうち上から索梯つなばしご
が降りてきた。ちょうど山本のいる場所の方に降りたため、山本は、 「お先に」 と言って足をかけた。彼はいま登って行く艦内には降伏に反対する反乱兵とか、衝撃で気が変になっている典中とかが存在すると覚悟していたし、もし殺されるなら自分が先に殺されるのが後輩としての道だと思って一足先に艦上にのぼったのである。すぐ真之も登って来た。 「艦内ではやはり異様な興奮状態にあった」 水兵や将校が、口々になにかののしりわめきながらあちこちを駈けまわっている。 「容易ならぬ形勢の不穏さ」
と山本は形容しているが、実際には恐慌パニック
が起こっているのでもなんでもなかった。彼らは水葬の支度をしていたのである。上甲板には戦死者の死骸がたくさん横たえられていて、それを運ぶ者、屍しかばね
を包む者、それらを指揮する声、さらにはひざまずいて大声で祈祷をあげる者などの諸動作や声がその辺りを駈けまわっている感じで、緊張の極に達している山本から見ればそれがパニック状態に見えたらしい。これが水葬の光景であると山本が気づいたのは、真之がそれら屍体の群れのそばへどんどん歩いて行って、ひざまずいて黙祷もくとう
したからである。 山本の談話によると、 「こんな時でも、秋山という人は変に度胸がすわっていた。ツカツカと行って前に跪ひざまず
き」 と、ある。 真之は敵の人心を攬と
るためにこの動作をしたのではなく、いずれこの戦いが終われば坊主になろうと覚悟を決めていた彼は、自分の艦隊の砲弾のためにたった今死んだばかりの死者たちの破損された肉体を見てひどく衝撃を受け、思わず冥福を祈る動作に移行しただけのことで、山本の語るところでも、
「その黙祷の様子に偽りならぬ心が溢あふ
れていた。敵の兵員たちはじっとその様子を眺めていたが、その眺める目にも正直な感謝の情が動いており、それ以後、彼らの態度から反抗の色が消え、親しみに似た感情さえ仄見ほのみ
えた」 とある。 |