砲撃は十分以上続いた。 その間
、ネボガトフ艦隊は一発の応射もしなかった。 (どうも様子がおかしい) と、最初に気づいたのは、秋山真之である。ただこの肉眼主義者は望遠鏡を持っていなかったため、横にいた加藤参謀長に、旗があがってはいませんか、とたずねた。 加藤の双眼鏡にも降伏信号までは識別出来なかったが、白旗は見えた。参謀清河純一大尉が、 「降伏です」 と、真之に言った。 ところが東郷はそれらの会話を聴きながらも沈黙し、
「射cぎ方ヤメ」 の号令を出さず、依然として射撃を続けさせたのである。 「長官、敵は降伏しています」 と、真之は怒鳴った。それでもなお東郷は右手で双眼鏡をかかげ、左手で長剣のつか・・
を握ったまま無言でいた。東郷は昨日、今日とつづいた戦闘中、一度も顔色を変えなかった。一度だけ顔つきが変わったのは、昨日の戦闘開始の直前、例の敵前回頭をやるとき、右手を左へ大きくまわして半円をえがいて
「取舵一杯」 を命じた時であった。彼は息を吸い、頬っぺたをふくらまし、半円を描き終わると息を吐いた。なにか彼が決断する時の少年の頃からの癖だったという。 しかしこの場合、ネボガトフとの対決においては表情の変化はなく、ただわずかに不機嫌そうであった。 五隻の敵艦に、砲弾が命中するたびに爆煙があがっている。 真之がその癖のある両眼を裂くようにして東郷を怒鳴ったのはこの時であった。 「長官、武士の情なさけ
であります、発砲をやめてください」 と叫んだ声は、そばにいた砲術長の安保清種少佐がのちに大将になってからもその時の真之の血相の変わりようを説明し、その言葉を繰り返して口真似した。 が、東郷は安保清種の観察によれば冷然としていた。真之の言葉に切りかえすように、 「本当に降伏すッとなら」 と、薩音さつおん
で言った。 「その艦を停止せにゃならん。げんに敵はまだ前進しちょるじゃないか。──」 東郷の戦時国際法の知識の的確さは定評があった。たしかに軍艦が敵に降伏するとき、白旗を掲げるだけでなく機関を停止させねば完全な意思表示にはならなかった。 「秋山さんも返す言葉がなかった」 と安保は回想しているが、真之は敵を見つつ、この一種特異な精神の反応を持つ男は怒りとも悲しみともつかぬ感情をおさえかねていた。たしかに敵は間抜けであった。前進をつづけているだけでなく、砲火こそ噴かなかったがその全砲門は三笠に向けられていたのである。 が、ほどなく敵も気づき、機関を止と
めた。東郷ははじめて射撃を中止させた。 |