〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part W-U』 〜 〜
── 坂 の 上 の 雲 ──
(八)
 

2015/09/17 (木) 

ネ ボ ガ ト フ (八)

たいていの国の海軍刑法では、ネボガトフのこういう処置はその主将が死刑に該当することになっている。奮戦して後の降伏なら 「名誉の降伏」 ということになるのだが、戦わずして敵にくだ り、その艦船もしくは兵器を敵に交付した場合その指揮官は死刑 ── ということになっている。
ロシア海軍はとくにこの点で厳格な伝統を持っていた。かつてクリミア戦争の時、ロシアの軍艦一隻がトルコ海軍に奪われ、トルコ軍艦として戦域を出没していたことがある。こんときの皇帝はこれをロシアの汚辱とし、全海軍に対し、
「かの軍艦を捜索し、撃沈せよ」
と命じ、執拗に督励したことがある。その皇帝の名は、皮肉なことにこのネボガトフの旗艦の名前であるニコライ一世であった。
ついでなから、ネボガトフとよく似た処置をとった艦隊指揮官としては、日清戦争の時の北洋艦隊の司令長官てい 汝昌じょしょう がある。彼は根拠地に追いつめられ、万策尽きて降伏し、包囲していた日本の連合艦隊司令長官伊東祐亨すけゆき に艦船をさし出した。その理由は部下の生命を救うとためということで、ネボガトフと同じであった。ただ丁汝昌はそれを決定するとともに毒をあおいで死んだという違いだけである。当時清国政府は腐敗し切っていた。丁汝昌は名将の評判が高かった水師提督だが、その清国末期の北京政府でさえ丁汝昌のこの行動を許さず、その葬儀を営ましめなかったほどである。
「民族は軍人に対し、その合理的判断による降伏よりも、名誉と壮烈さを望んでいる。前者はその時期においては多少の生命を救うことが出来ても、後世、その民族の子孫に自尊心を持たしめるゆえんんおものではない」
という意見が、ロシアにおいては圧倒的な正当さをもっていた。
ネボガトフにさらに不利な条件が加わっているのは、戦闘前に司令長官ロジェストウェンスキーが出した命令の中に、
「もし艦が優勢なる敵兵力に包囲され、避くべからざる不運が必至と思われる場合」
という条項があったことである。その場合は 「艦を自沈せよ」 とある。もっとも戦闘の直前にいわば不意の、 「心得」 というにちかい内容のものを命令のかたちで出すというロジェストウェンスキーの側にも提督としての問題があるかも知れない。いずれにせよネボガトフはこの命令にも違反しているのである。
ついでながら、巡洋艦オレーグというのがこの戦場からはるか南へ落ちのびてマニラ湾に遁入し、戦時国際法によって米国海軍に武装解除されたが、その副長だったS・ポソコフが手記を書いていて、
「自分たちの行動は正しかった。しかしネボガトフの降伏は不可解であり、かつ許し難い」
と、奇妙な攻撃をしている。自分たちは第三国である米国に軍艦を抑留されたが、ネボガトフは敵国に軍艦を渡したからよろしくない、というのである。

『坂の上の雲』 著:司馬遼太郎 ヨリ
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