〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part W-U』 〜 〜
── 坂 の 上 の 雲 ──
(八)
 

2015/09/17 (木) 

ネ ボ ガ ト フ (七)

ネボガトフは戦闘指揮の位置につくべく、旗艦ニコライ一世の指令塔に体を移していた。
艦長のスミルノフ大佐は昨日の戦闘で負傷していたが、押して艦橋に立っていた。
この艦長とネボガトフの間を参謀長のクロッスという中佐がひどくいそがしげに二度ばかり往復した。
艦長は戦うことに絶望的になっていた。彼は一本眼鏡めがね をかざして四方をながめていた。日本の戦隊の数は次第に増えつつあった、上村の第二戦隊が出現した時、
「無傷だ」
と、絶望的な声をあげた。もっとも 「浅間」 だけは見えなかった。おそらく一艦だけはロシアの奮戦によって沈めることが出来たのだろうとスミルノフ大佐は思ったが、しかし事実とは違っていた。浅間はこの時東郷直率の第一戦隊の方に臨時に属していたのである。
その東郷の戦隊が単縦陣をもって北方の沖合いに現われたとき、スミルノフの戦意はまったくうしな われた。東郷の艦隊がまったく無傷であることに目を見張らざるを得なかった。
三笠は依然として先頭にあった。二番艦の敷島がつづき、富士、朝日、春日、日進とつながっている。ロシア側にすれば昨日飽き飽きするほど繰りかえしみせつけられた東郷の第一戦隊の陣容であり、驚いたことにどの艦の外観も変化しておらず (望遠するスミルノフの目から見れば) 、今から観艦式に出かけるようにいきいきと航進して来た。
(いったい、あれだけ奮戦した昨日の戦いは、あれは何だったのだろうか)
と、スミルノフ大佐は思った。ロシアの戦艦や装甲巡洋艦で千発以上の砲弾を敵へ送った艦はざらにあったであろう。それらの砲弾が東郷の艦隊にカスリ傷をおわせなかったということは、たとえその無傷の状態を目で見せつけられても、公算として信じられることではない。
このネボガトフ艦隊を囲むようにして現れた日本側の陣容は水雷艇を除いて二十七隻であった。それにひきかえネボガトフの旗艦ニコライ一世は攻撃力も防御力も見すぼらしい旧式戦艦にすぎない。あとにつづく船影戦艦のアリョールは海に浮かぶ鉄屑であった。もっとも射撃は多少とも可能であった。アリョールは徹夜で修理作業をし、二十五門以上の砲はなんとか射てるようになっちある。
ロシア側の五隻の軍艦には、なお生きている乗員があわせて二千五百人いた。彼らはまるで殺されるために存在しているようなものであった。
「無駄だ、戦うのは」
と、艦長はつぶやいき、参謀長のクロッス中佐の顔を見た。クロッスはうなずき、無言ながら同意を示した。
この参謀長は指令塔のネボガトフのもとに行き、艦長の意向を伝え、司令官としての決心を問うた。
この場合、艦長や参謀長の意見よりもネボガトフの意思決定のみがすべてであった。
もし降伏ともなれば、軍法会議で死刑を宣告されるのはネボガトフ自身なのである。
もっともネボガトフ自身はすでにこういう状況を予想したいたらしく、態度に昂奮が見られなかった。勝ち目のない戦闘で二千五百の生命を失わしめるのは無用のことだ、という結論に達していたらしくひどくおだやかな物言いで、
「降伏しよう」
と、言った。

『坂の上の雲』 著:司馬遼太郎 ヨリ
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