東郷の諸戦隊は、夜を徹してひた走りに走り、二十八日払暁までにそのほとんどは鬱陵島付近に達していた。 東郷は待ち伏せたという形での追撃戦の戦法を取った。彼の真価は二十七日の主力決戦よりもこの追撃戦にあったと評価されているが、しかしこの方針は既定のことでもあった。東郷に課せられている戦略方針は敵の一艦といえどもウラジオストックへやらないというところにあり、彼の指揮下にあるすべての艦艇はこの方針で動いていた。水兵まで知っていた。もし艦艇の中の士官がことごとく戦死しても
── そういう悲惨なケースはなかったがたとえ存在しても ── その艦艇は操舵員や機関兵の手で鬱陵島付近まで運ばれて来たに違いない。 もっとも敵を索
むべき海域は広すぎ、すべてを捕捉出来るかどうかという物理的困難さもあった。 ただ東郷に幸いしたのは二十八日の夜明けは前日に比べ、みごとな朝焼けでもって始まったことである。海上は前日の大うねり・・・
が多少残っているが、濛気はほとんどなく、視界はよく利いた。 この払暁、三笠は第一、第二戦隊の各艦ととみに鬱陵島の南微西・約三十海里の地点に達していた。 太陽が昇ると、海がびっくりするほどに濃い紺色に変わった。 「見えんな」 と、艦橋で参謀長の加藤友三郎は、不機嫌そうにつぶやいた。真之は、 「どこかの網にかかるでしょう」 と、答えた。彼は自分の数字を信じていた。彼は敵がそのコースをたどるであろう水域をいくつか設定し、綿密に計算して各戦隊をばらまいておいたつもりである。 午前五時現在の各戦隊の位置は、さきに触れた第一、第二戦隊のそれをのぞくと、次の通りである。 第四戦隊
(浪速、高千穂、明石、対馬のほか第三戦隊の音羽と新高を臨時に編入) は鬱陵島の南微西・約六十海里。 第五戦隊
(厳島、鎮遠、松島、橋立、八重山) は、韓国冬外串とうがいかん
の東方、約四十三海里。 第六戦隊 (須磨、千代田、秋津洲、和泉) は、韓国冬外串の北東微東・約五十二海里。 ところが、厳島を旗艦とする第三艦隊の第五戦隊は、夜が明けてからほどなく東方の沖合いに煤煙を見つけたのである。すぐさま各戦隊に速報するとともに速力をあげて接近するにつれ、煤煙は数条になった。厳島には第三艦隊の司令長官片岡七朗が座乗していた。 すぐさま無電で全艦隊に報じ、そのまま接触を保った。敵は戦艦二隻、海防艦二隻、巡洋艦一隻である。 ネボガトフは、発見された。 |