事態は、よく構成された演劇のように進行した。漣の塚本克熊中尉が、午後四時すぎ、彼が宝物のようにしているプリズム式双眼鏡でもってその煤煙の正体が敵の駆逐艦であることっをとらえた。 二隻いた。後続するのは駆逐艦グローズヌイであった。他の二隻の艦
(ドンスコイとブイヌイ) とはすでに別れてしまっていた。 (四本煙突、二本マスト。ロシアの駆逐艦に相違ない) 相羽恒三艦長はつぶやき、 「合戦準備」 と、振り返って叫んだ。艦内に人びとが走り、それぞれの配置についた。艦は三十ノットに近い物凄いスピードをあげた。海面までわずか二・五メートルしかないこの駆逐艦はたちまち上甲板に波が走った。 相羽は、攻撃の目標の分担を決めた。後続する陽炎に対しては、敵の後続艦
(グローズイヌ) をやれと命じた。 一方、ロシア側でも気づいた。 後続している駆逐艦グローズヌイの艦長アンドレイ・シェフスキー中佐はむろん戦う気であった。双方駆逐艦であり、双方二隻ずつである。この状況で砲戦をしない軍人はどの国にも存在しないし、軍人というのは士官も兵もそのようにして教育されてきた。しかも同中佐はいまは艦長という国際法からいっても一艦をもって国家を代表する職分にあり、戦闘中においてもこの艦に関するすべての名誉は彼の指揮一つにかかっている。 彼は速力をあげてベドーウィの右舷すれすれにならび、 「イカガスベキヤ」 と、手旗をもって問うた。 「ウラジオストックへ行くべし」 命令はそれだけである。本来なら戦闘についての命令があるはずなのにそれは無かった。またウラジオストックへ行くなら行くで、たとえば
「ワレニ後続セヨ」 という命令がはねかえって来るはずである。それも無かった。 (しかたがない) シェフスキー中佐は何事か、不快な翳
が胸を横切った。 (単艦で戦うのみだ) と思った。 中佐は合戦準備を命ずると同時に四つの汽罐かま
も蒸気をあげさせ、速力をあげた。 これに対し、陽炎は追跡した。追いすがって砲を射ったが当らない。グローズヌイも逃げつつぶっ放した。が、双方当らなかった。どの国の駆逐艦も射撃が下手であった。はげしく動揺しつつ全速で走っているなかで照準が困難なうえすぐれた射ち手は戦艦に集められていた。砲戦は二時間つづいた。距離は四千メートルから六千メートルであった。 これでもって、陽炎はとり逃がしてしなったのである。バルチック艦隊の総兵力のうち、東郷の手から逃れてウラジオストックに遁入できたのは、かつて極東総督用の遊覧ヨットに軽砲を積んだ巡洋艦アルマーズと二隻の駆逐艦だった。グローズヌイはわずか二十六ノットという速力で、これにひきかえ陽炎は三十ノット近い速力を出す事が出来た。なぜとり逃がしたかということについては、いっさいの資料は沈黙している。 |